サーリアホのオペラ『遙かなる愛』を聴いて

 去る5月に東京オペラシティの「コンポージアム2015」で現代フィンランドの作曲家カイヤ・サーリアホのオペラ『遙かなる愛』が上演された。演奏会形式で、バリトン、ソプラノ、メゾソプラノの3人の歌手と合唱団、東京交響楽団と指揮がエルネスト・マルティネス=イスキエルドだった。これがとても良かった。
 東京オペラシティのホームページに掲載されているそのあらすじ、

12世紀、アキテーヌトリポリと海が舞台。
ブライユの領主ジョフレ・リュデルは、貴族階級の享楽的な生活に嫌気がさし、遥かなる真実の愛を渇望している。そこへ海を渡ってきた巡礼の旅人が、まさにリュデルの望むような女性、トリポリ女伯クレマンスに会ったという。
巡礼の旅人が二人の間を行き来し互いの存在を知らせると、想いの募ったリュデルは彼女のもとに赴くことを決意し、海を渡る。しかしその途上でリュデルは、「遥かなる愛(恋人)」に会いたい気持ちと同時に、その人を実際に目の前にすることを恐れている自分との間で苦悩する。苦悩はやがて病を呼び、トリポリに到着するときには、死の瀬戸際まで来ている…。
船が着き、トリポリの城砦で出会った二人は、互いの思いを告げ、抱き合い、愛を誓う… クレマンスの腕のなかでリュデルが息を引き取ると、彼女は天に怒りをぶつけ、修道生活に入ることを決める。(後略)

 ストーリーはきわめて単純だ。演奏会形式だから、歌手たちはオーケストラと一緒に舞台に立って、演技はしないで歌っている。この現代音楽の単純なオペラがとても感動的だった。
 この成功したオペラの単純なストーリーは、岡田暁生の『オペラの終焉』(ちくま学芸文庫)を思い出させる。岡田はそこでリヒャルト・シュトラウス作曲のオペラ『バラの騎士』をテーマに、その成り立ちを分析している。台本を担当したのはホフマンスタールだが、その初稿にシュトラウスが注文を付けている。『オペラの終焉』から引く。

 しかしシュトラウスホフマンスタールに求めたのは、あくまでオペラ用の「台本」であって、文学劇ではなかった。そしてオペラの台本に必要なのは何より、単刀直入な表現であり一直線の劇展開であって、デリケートな心理の綾などではない。思い迷って逡巡する人物ほどオペラにふさわしくないものはあるまい。(後略)

 オペラに必要なのは、「単刀直入な表現であり一直線の劇展開であ」ると言う。サーリアホの『遙かなる愛』はそれだった。
 ここで晩年の武満徹がオペラを作曲したがっていたことを思い出す。大江健三郎が台本で協力した。大江は、自身の『治療塔』だったか、その続編の『治療塔惑星』だったかを基にオペラの台本を書き上げる。しかし武満はそれを採用することを拒み、結局武満のオペラは書かれなかった。
 なぜ武満が大江の台本を採用しなかったのか本当の理由は分からない。もしかすると、大江の書いた台本は「文学劇」であって、「単刀直入な表現」でも「一直線の劇展開」なのでもなかったのではないか、ということは十分考えられる。
 さて、この岡田暁生の『オペラの終焉』はすばらしい見事な本だ。私には力が足りなくて、本書を紹介することができない。オペラに興味があればぜひ読まれることをお勧めする。驚くのは、この本が岡田が大阪大学文学部に提出した博士論文をもとに、加筆修正したものだということだ。処女作にしてこんなにも優れた論考を書き上げている。後年、『オペラの運命』(中公新書)でサントリー学芸賞を受賞し、ついで『西洋音楽史』(中公新書)を書き、そのあと『音楽の聴き方』(中公新書)で吉田秀和賞を受賞している。いずれもきわめておもしろかった。


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