片山杜秀『クラシックの核心』を読む

 片山杜秀『クラシックの核心』(河出書房新社)を読む。バッハ、モーツァルトショパンワーグナーマーラーフルトヴェングラーカラヤンカルロス・クライバーグレン・グールドの9人の音楽家を取り上げている。雑誌『文藝別冊』の特集に掲載したもの。なんだかおしゃべり口調で、しかもいつもその音楽家との出会いから始めている。「バッハとの出会いですか。幼稚園から小学校にかけて長いことヴァイオリンを習っていましたので、そこでバッハは出てきたんですよ」。「マーラーとの出会いは、交響曲第6番だったでしょうか。カラヤンベルリン・フィルのレコードが出たんです。私が小学校6年生の年ですかね」。
 これらは何だろうと思ったら、原稿を書いたのではなく、編集者から質問を受けてその場で即興的に応答したものを起こしたものだった。「談話原稿」と言っている。「インタヴューは毎回必ず、テーマ音楽家との「出会い」を尋ねられるところから始まりました」とある。
 音楽の専門誌に掲載したものではないので、あまり専門的ではなく、軽いところから語り始める。しかし、あの片山杜秀だ、ちゃんとディープな世界へ連れて行ってくれる。
 ワーグナーは初めパリに出て、ユニヴァーサルでインターナショナルなマイアベーアに傾倒するが挫折する。ワーグナーは転向し、ナショナルなスタイルのウェーバーの方向を目指す。『魔弾の射手』、後進国ドイツのまだすれていない民衆に依拠する道を選んだ。
 マーラーの章で、

 マーラーブルックナーを比較するとどうなるか、ですか。(……)たとえば、マーラーを好んで振る指揮者で、ブルックナーも得意という人はとても少ないわけです。逆もまた真です。極端にロマンティックで表現主義的でカラフルで、喜劇から悲劇まで、軽演劇からシェイクスピアまで、ころころと表情を変えていく、何がなんだか分からないカオスを表現できる指揮者、多様さをどんどん振り分けられる指揮者が、上手にマーラーを振れる。
 それに対してブルックナーを指揮するには、集中して集中して、精神的な持続を達成することを求められる。いわゆる「宗教的」ということです。(……)
 ブルックナーと現代音楽のミニマル・ミュージックとの共通性も、よく指摘されるところです。ミニマル・ミュージックはドラッグやヒッピーの時代から生まれてきたものですよね。60年代ですよ。(……)
……ブルックナーは、シューベルト交響曲《ザ・グレート》とかの天国的な長さと通底しています。シューベルトブルックナーミニマル・ミュージックという系譜がありますね。フィリップ・グラスなんかは自分の音楽とブルックナーの類似性を意識している。

 いや、どの章もおもしろい。カルロス・クライバーの分析も(私が知らないだけかもしれないが)秀逸だ。「とにかくカルロス・クライバーには、背景というか土壌というか風土というか、それがない」。「見て聴いて模範になったのは、父親(エーリヒ・クライバー)の指揮だけでしょう」。「ほんと、お父さんの影を踏むばかりの人生ですよ」。
 音楽評論家としても一流で、しかも本職は思想史家。天が2物を与えている。