吉行淳之介『私の文学放浪』と『私の東京物語』を読む

 吉行淳之介『私の文学放浪』(講談社文芸文庫)と『私の東京物語』(文春文庫)を読む。『〜文学放浪』は何度目か、『〜東京物語』は初めて読んだ。初めてだったとはいえ、ほとんどが読んだことのあるものばかりだった。
 『〜文学放浪』は文字通り、吉行の文学的自伝だ。中学生のころから主に文学に関するエピソードを拾っている。父親の吉行エイスケは新興芸術派の作家だった。キラキラした文体で書いていて、それが当時華やかだったらしいが、吉行はそれが古くなっていて最後まで読み通すことができないと言っている。だから吉行は文体に新しさを求めるのではなく、時代に規定された言葉も使うのを避けている。文庫に収録されるときにも、復員服などの言葉を書き直していたのではなかったか。十返肇は若いころ、エイスケのところに出入りしていて、エイスケを尊敬し文体にも憧れていたようだが。
 『原色の街』を書くまで娼婦の町に足を踏み入れたことはなかったと書いている。

 結婚して間もなく娼婦の町に耽溺するようになったというのは、やはり常識に逆行していることで、その耽溺を光源として結婚に照明を当ててみれば、その結婚のかたちが浮かび上がってくる筈であり、作家として食指の動く題材だが、今のところその材料を使う気持ちはない。
 現在私は配偶者をいわゆる不幸な状態に置いてしまった。その状態から抜け出す方法について、私と彼女の考え方が正反対であるために、その状態はえんえんと続いてゆくことになる。

『〜東京物語』は編集者の山本容朗が、吉行の短篇集やエッセイ集から東京に関係する作品を集めて編集したものだ。短篇小説「菓子祭」も収められている。三輪と景子がレストランで食事をしている。景子は中学3年生の少女で、三輪と景子は父娘とある。二人は別居していて、ひと月ごとに一緒に食事をしているらしい。これは吉行の実の娘をモデルにした唯一の作品ではないか。彼女は最初に結婚した女性との間に生まれた子で、その女性は終生離婚に応じなかったので、実質的なパートナー宮城まり子とはついに内縁のままだった。この辺りのことは子の有無を除けば池田満寿夫の状況とよく似ている。
 『〜東京物語』の中に、「昭和二十年の銀座」というエッセイがある。

 いまの銀座は、大通りの歩道を早足で歩いてゆくことができる。当時はそんなことはできず、前の人の背中がすぐ目の前にあって、ゆっくり動いてゆく状態だった。とくに西側(小松ストア側)の雑踏ははげしく、東側はいくぶん余裕があった。つまり銀座のメインは西にあったことになる。
 そして、人々は「銀ぶら」と称してその雑踏を楽しんでいた。最近、戦後生まれの人と話していて、「銀ぶら」という言葉をまったく違った意味に理解しているのに驚いた。金のない連中が、やむなくぶらぶらしていることだ、とおもっていたようだ。
 「銀ぶら」は、厳密にいえば銀座4丁目(昔はここの町名は6丁目で、尾張町と呼んだ)から、新橋の千疋屋あたりまでの西側の歩道をぶらぶらすることだった。

 後から進出したデパートは、銀座の西側に土地を求めることができなくて、三越松坂屋松屋も東側に建っている。その松坂屋も建て替わって今はギンザシックスという複合ビルに変わってしまった。客が押し寄せているようだが、まだ足を踏み入れたことはない。


私の文学放浪 (講談社文芸文庫)

私の文学放浪 (講談社文芸文庫)