佐野洋子『食べちゃいたい』を読んで

 佐野洋子『食べちゃいたい』(ちくま文庫)を読む。39種類の野菜や果物をテーマに、それらを擬人化してちょっとエロチックな文章を書いている。いや擬人化とは少し違っている。擬物化? 「パセリ」という章、

 どうして女はあんなに度々ヘアスタイルを変えるのかしら、流行だけじゃないわね。梅原龍三郎の額ぶちのような髪から、突然すりこぎにおみそをつけたようにバッサリ髪の毛を切ったりする。失恋したのよ。自分を舞台の女優かと思っている。(中略)
 私は生まれた時からヘアスタイルなんか変えたことない。チリチリのカーリーヘアで、遠くから見ても髪のモコモコだけしか見えないって悪口言われたって平気。私特定の誰かだけに愛されたいなんて考えたことない。全ての人に私を与えられる。私のチリチリしたどっさりある髪の毛に顔をうずめた、たくさんの男達。男達は私の髪の毛を根元から折って、大切に持って帰る、女房のお土産に。
 女房達は私の髪の毛を、まな板の上で執念深く叩き潰して、あらゆる料理に振りかける。本当の愛って、私の髪の毛のようにあまねく世界にゆきわたるものよ。
 パセリの入っていない料理、間が抜けている。

 そこに1点の版画が挿入されている。その版画がエロチックですばらしい。丸裸の女がチリチリのカーリーヘアで座っている。すこぶる極めて魅力的だ。
 こんなシュールな物語なのに、佐野は秘かに自分の思い出を織り込んでいる。「ライチ」という章。

 青山の紀ノ国屋で私があの人に会った時、ちょっと私を見たけど、通り過ぎて行った。
 私だって、あの頃四つか五つだったあの子が、あんな中年おばさんになっているなんてあの人見るまでわかんなかった。
 でもあの子、私のことすごく好きだったんだ。私は別に、特にあの子が好きだったわけじゃない。国では、私はとても人気があったし、人はそれ相応の私の正しい扱いというものを知っていた。
 何十年も私はあの人の記憶の底で死んでいた。
(中略)
 自分の子どもが生まれて来ると、子供を寝かしつけながら、「母さんが小さい時に食べた、すごーくおいしいものの話してやろうか」「どんなもの?」「あなたが知らないもの。黄色い粟のおもちの中にね、黒いあんこが入っているの。それを道でね、中国人が大きなお鍋に入った油でね、ジャーッと揚げて、道に立ったまんま食べるの。あわてて食べるとあんこで舌がやけどしちゃうの」「ぼくも食べたい」「日本にはないの。あなたが知らないもの、母さんたーくさん食べたんだ」(中略)
 でもあの人は私のことは忘れていた。
 六本木の料理屋であの人はまた私に会った。私をしげしげ見て、あの人は思い出さなかった。思い出さないばかりか、「なんですかこれ?」と隣の人にきいたりしていた。私は思い切って、裸になった。真っ白な裸の私を見て、あの人は「あっ」と言った。
 そしてそう―っと、私を唇の間で噛んだ。私の汁が肉から破れてあの人の唇からたれた。
「あ−」とあの人は言った。あふれるようにあの人は私を思い出した。私ははるばる中国から来たのだから。「兄さん」とあの人は言った。まもなく死んだあの子の小さい兄さんを私も思い出した。ボールいっぱいに剥かれた私を幼い兄さんと食べたことを、私を口の中で汁と果肉をぐちゃぐちゃにしながらあの人は思い出していた。私ははるばる中国から来たんだもの。

 「私」はライチで、あの人もあの子も佐野洋子なのだ。佐野が一番好きだった兄さんのことが綴られている。挿絵はここだけ文章に負けている。


食べちゃいたい (ちくま文庫)

食べちゃいたい (ちくま文庫)