佐野洋子『私の猫たち許してほしい』(ちくま文庫)を読む。著者初めてのエッセイとのこと。すばらしい。
植物園にばらを観に行った。静かな植物園で、ばら園の一角だけがざわめいていて、音もないのにけたたましいと書いている。ばら園をこんな風に書いているのを初めて読んだ。
……実におびただしいばらがあった。大輪の白いばらもあったし、血のように赤い花もあった。甘やかなピンクのまわりがすかに色濃く深まっているのもあったし、小さな野ばらもあった。クイーンエリザベスという堂々たる名前の花もあったし、セブンティーンという可憐な花もあった。固いつぼみもあったし、美しい娘の時を誇っている花も、しどけなく散りかけている花もあった。その一つ一つがすさまじい自己主張をするのである。大輪の白い花は、私は白いの、こんなにまっ白、見てちょうだい見てちょうだい、といっている。
セブンティーンは、小さくたって、私は私よ、可憐でしょ可憐でしょ、可憐って私のことよ、と叫び、つぼみは、私はつぼみよ、でも明日になれば、開いてやるんだから、明日になれば、と首をつき出している。野ばらでさえ、低い背丈で一重の花びらで、私こそ野ばらよ、人は人よ、私は私なんだからと、地面のそばで黙ってはいない。
そしてくずれかかった花は、昔私きれいだったの、今こんなになったって一体だれのせいなのよ、わたしのせいではないわと開き直ってしどけないのである。
ばらは西洋の花なのだ。
このユニークな視点も、ばらに強い自己主張を見るのもすべて佐野自身によるのだろう。ばらに見た自己主張は佐野の自己主張の強さに他ならない。
標題になった章を見ると、佐野の猫との関係が綴られている。幼児期、佐野は山梨に引き上げてきて父の田舎に暮らしていた。そこに片目の猫がいた。小学生だった兄が雑誌の記事に、猫は木から落ちても地面にちゃんと立つと図解してあるのを読んだ。兄は猫を屋根の上に放り投げた。猫は転がり落ちてきてやっとのことで四足で地面に降り立った。もう一度投げ上げた。猫はほとんどしゃがみ込んだまま、地面にへばりついた。もう一度投げ上げた。猫は地面に叩きつけられて横になったまま動かなかった。
佐野はずっと猫がきらいだった。それが息子が4歳ぐらいのとき、友人宅へ行ったら、息子がすばやく猫を見つけ猫に突進した。息子が猫を欲しがるので猫を飼おうと決心した。友人が生まれたばかりの子猫を持っていたので2匹もらった。その2匹目は可愛くなくて、そのことを悟られまいと優しい声をかけたが、多分その猫は佐野の気持ちを見抜いていたのだと思うと書く。犬を飼いはじめたら、ふといなくなっていた。
ついで誰からも好かれなかった「かまど猫」のことが語られる。とても汚い模様の猫のようで、ググったら分かった。さび猫というのと一緒だろう。
ところどころ挟まれる佐野の挿し絵もとてもいい。佐野のエッセイに外れはない。
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