東京国立近代美術館の安田靫彦展を見て


 東京国立近代美術館安田靫彦展が開かれた(5月15日まで)。私は最終日の2日前に見に行った。さすが入場者は多かった。安田靫彦展ちらしのテキストから、

《飛鳥の春の額田王》、《黄瀬川陣》など、歴史上の人物や場面を描いた名作の数々で知られる日本画家、安田靫彦(1884−1978)。東京・日本橋に生まれ、日本美術院の再興に参画し、中核のひとりとして活躍しました。「美しい線」、「澄んだ色彩」、「無駄のない構図」……。日本画に対して誰もが抱くこのようなイメージは、すべて靫彦が作ったといっても過言ではありません。また、生涯かけて歴史画に取り組み、誰も描かなかった主題にゆるぎないかたちを与え、古典の香り豊かに表現したことも特筆されます。(後略)

 会場に入ってすぐに靫彦の年譜が掲載されている。靫彦は小堀鞆音に師事したとある。そうか、鞆音の弟子だったのか! 鞆音はまた小山田二郎の師でもある。日本画の巨匠鞆音は同じく日本画の巨匠靫彦の師であり、同時に特異な洋画家小山田二郎の師でもあったのか。そして鞆音は現在活躍中の洋画家小堀令子の祖父である。小堀令子は小山田二郎の最後の伴侶だった。
 さて、安田靫彦の40年ぶりという回顧展を見る。「黄瀬川陣」は平家追討の兵を挙げた頼朝のもとに馳せ参じた義経を描く。あるいはたおやかな額田王、荒々しいとは真逆の瑞々しい青年の風神雷神図。なるほど、現代日本画のある種の手本を作っている。巧みな線、洗練された色彩、心地よい作図、見る者を穏やかな気持ちにさせる。日本画の巨匠と呼ばれる画家に共通する特長だろう。ファンが多いのが頷ける。
 しかしながら私には、靫彦を素直に楽しむことができない。たとえば、セザンヌの「マンシーの橋」を見るときのように、無条件に色彩に淫する喜びが感じられない。同じくセザンヌの「りんごとオレンジのある静物画」を見るときの深い驚きや、マチスから受ける色彩の圧倒! アンゼルム・キーファーの造形と絡み合った強い思想姓、吉仲太造の晩年の静謐な美、90年代の野見山暁治の見事な達成、それらと比較したときの靫彦の物足りなさをどうすることもできない。それはひとり靫彦に限らず、日本画そのものの物足りなさとも思われるのだ。
 このとき、会田誠日本画論を思い出す。会田は『美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか』(幻冬舎文庫)で書く。

 明治・大正・昭和初期の頃の日本画は、何となくラファエル前派に一部似ている気がします。反時代という意識をしっかり持った保守性、飽くなき細密描写に代表される画家同士の切磋琢磨、花と女性を偏愛する唯美的感性、少し通俗的な古典文学趣味、そして軽くて薄い画面……やはり両者とも、作品によっては〈偉大〉の域まで高められたイラスト、という気がします。

 会田は菱田春草の画集を見るのが好きという。そして春草の「落葉」について清澄な境地と言い、ついで次のように続けている。

「これはほとんど日本の、明治の、あの社会システムの〈良心〉が絵になったような絵じゃないか……」。そんな言葉がふと口をついて出ます。明らかにこの時初めて〈日本画〉がこの世に誕生しました。そして盟友横山大観を含めて、この後誰がこの『落葉』を超ええたでしょう。だから僕の最も乱暴な日本画論はこうなります――日本画は『落葉』に始まり、『落葉』に終わった――。ページをめくるとアンコールの小曲『黒き猫』があり、その悲しい調べを残して突然幕が下がります。

 もちろん、こんな生意気なことを言えるのも、安田靫彦展を見ることができたためだ。そういう意味で大変有意義な企画だったと思う。
       ・
安田靫彦
2016年3月23日(水)〜5月15日(日)
東京国立近代美術館
電話03−5777−8600(ハローダイヤル)
http://www.momat.go.jp/