安藤宏『「私」をつくる』を読む

 安藤宏『「私」をつくる』(岩波新書)を読む。副題が「近代小説の試み」という。このぶっきらぼうな題名に反して内容はとても面白い。近代小説は主人公を「私」としたり「彼」としたりする。一人称小説が実体験を語ることが多く、その究極の姿が日本独特の私小説であり、三人称で語られる小説が客観的な世界を描いていると思われがちだった。安藤はこの問題に鋭く切り込んでいく。

 一般に、特定の人物のみに寄り添って語る視点を一人称的視点、全体を俯瞰するように語る視点を三人称的視点という。このいずれの人称で語るか、というのは、実は小説全体をつかさどる叙述主体の「資格」にかかわってくる問題である。

 安藤は二葉亭四迷から始めて、夏目漱石志賀直哉太宰治泉鏡花川端康成牧野信一芥川竜之介永井荷風などの作品を取り上げ、「私」を隠す「三人称」のつくり方、読者を誘導する仕掛け、回想の読み方とつくり方、小説を書く私について書くというメタ・レベルの法則、一人称で幻想を語ることなど、具体的に紹介している。今まで読んだことのない刺激的な小説論だ。一人称小説が豊かな可能性を持っていることが教えられた。
 『第8章 「作者」を演じる―「私小説」とは何か―』の項に、全体のまとめが書かれている。

……牧野信一の作品を見ればわかるように、実生活を題材にして夢や幻想世界に羽ばたいていくプロセスを示せる点にこそ「私」が「私」を書くことの特色があったはずだし、そもそも叙述に潜在する「私」を隠したり顕在化させる操作は小説づくりの基本であり、三人称だから客観的な物語で、一人称だから事実の報告だ、という単純なものではない。一人称にはさまざまな機能があるわけで、事実の「告白」というのはあくまでもそのよそおいのうちの一つに過ぎないのである。また、「私」に応答する「あなた」をどのように構想していくかは小説全体を決定する重要なファクターであり、そこから「私」と「あなた」を含めた「私たち」をいかに構想するか――物語が本来持っている共同性を近代小説にどのように持ち込むか――という課題が派生してくることになる。「この小説」を書いている「私」が主人公であるケースが多いのは、「私」の「見え方」、「つくり方」をメタ・レベルに表現することによって独自の遠近法をつくることができるからなのであって、決して実生活の「告白」だけを目的にしているわけではないのだ。
 「私小説」を単純な悪役にしてしまう議論は、あたかも魔女裁判のように、これらの可能性を一様に覆い隠してしまう可能性があるのである。

 優れた小説論を読んだ。専門家あいての論述ではなく、小説好きな読者ならきっと面白く読めて、一人称小説に対する見方が変わるだろう。