佐藤秀明『三島由紀夫』を読む

 佐藤秀明三島由紀夫』(岩波新書)を読む。佐藤は三島由紀夫文学館館長。その地位に相応しく三島に関する資料を徹底的に読み込んでいるように見える。

 三島は早熟な少年だった。15歳の頃詩を量産している。「詩はまつたく楽に、次から次へ、すらすらと出来た」「自分を天才だと確信してゐた」と「詩を書く少年」という短編小説に書いている。その詩について佐藤は書く。

 公威(三島の本名)の詩は、感動や印象があってそれを詩のことばで表現しようとしたものではない。そういう詩もないわけではないが、現実世界への感情が表現を促したとしても、単語やフレーズの感触がことばの連なりを作り、詩の世界が見えてくるとさらにことばが繰り出されるといった具合に作られたものだ。そんなふうにして書かれた詩には、読み手を引き入れる力もなければ、次へと引っ張る駆動力もない。凝縮され鮮烈に現れる現象もなければ、ことばが世界を開放することもない。(後略)

 きわめて妥当な評価だろう。知的な少年にありがちな詩作だ。ただ、佐藤は32歳のときに刊行した三島の「十五歳詩集」の中に、「凶(まが)ごと」という詩があることを指摘し、これを高く評価している。

 さて、三島の小説『禁色』について、「日本文学でこれほど具体的にホモセクシュアルの風俗を描いた小説はなく、同性愛をタブー視する偏見がよりきつかった欧米でもなかっただろう」と書く。

 「憂国」は、介錯のない切腹の描写が一編のかなりの部分を占める。これについて、

 三島は新潮文庫『花ざかりの森・憂国』の自作解説で、「もし、忙しい人が、三島の小説の中から一編だけ、三島のよいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説を読みたいと求めたら、『憂国』の一編を読んでもらへばよい」と述べた。

 三島は戯曲や歌舞伎台本も数多く書いている。その世評の高い『サド侯爵夫人』について、佐藤は見事な解釈をする。サド侯爵夫人は、獄中の夫(サド侯爵=アルフォンス)に終始尽くしながら、サドが釈放されると別れてしまう。フランス革命が起こって、アルフォンスは勅命逮捕状が無効になったため自由の身となり、ルネ(サド侯爵夫人)を訪ねてくるが、修道院に入る決意を固めたルネは、アルフォンスに会おうともしないで幕となる。

 菅孝行は、「三島は、ルネを三島本人に、「共犯者」アルフォンスを理想の天皇に、「裏切者」アルフォンスを敗戦後の天皇の実像に、モントルイユ伯爵夫人を、いつの世にも己の権益と名誉を守ることを正義と装う上流階級の俗物群に重ねた」と見る(『三島由紀夫天皇』)。菅孝行のこの見立ては、後述する三島由紀夫天皇観と重なり、しっくり来る。『近代能楽集』の諸編も、菅孝行によれば三島の天皇観を表現した一種の寓話だということになる。その見立ての一致に面白さはあるが、事は逆ではないかと考えられるのである。三島の思考形態が『近代能楽集』を生み、『サド侯爵夫人』を生み、天皇観を作りあげたのだと。だから面白いように作品と天皇像が合致するのである。

 三島は歌舞伎に接し、その台本を書いている。歌舞伎はヨーロッパの近代劇スタニスラフスキー・システムと異なり、俳優と役は別ものと考える。三島はこれをシアトリカルな芝居という。俳優と演技を一緒に楽しむ歌舞伎からの発想だという。

 人間である天皇は、神の役割を果たすときは神としての天皇を演じなければならない、というのが三島の天皇論だ。天皇天皇として存在するのではなく、人間として、即位礼正殿の儀や大嘗祭によって、皇位継承を宣明し天照大神と直結したことを示し、日本文化の伝統に連なることを意識し意識させなければならない。人間と天皇をいったん分離するシアトリカルな天皇論である。

 そして、「生前退位をした平成の天皇はこのことを意識していたように思われる」と書く。見事な分析だ。

 私は自分の関心のあるところを拾い出しているので理屈っぽく見えるかもしれないが、佐藤の三島の小説の分析もすばらしく、三島を腑分けしてここまで書かれたら、この後誰も三島論を書けないのではないかとまで思われた。10月に発行されて、すでに三島の決定論となったのではないか。これが新書と言う小さな本であることも驚くべきことだ。

 

 

三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)

三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)

  • 作者:佐藤 秀明
  • 発売日: 2020/10/21
  • メディア: 新書
 

 

 

三島由紀夫と天皇 (平凡社新書)

三島由紀夫と天皇 (平凡社新書)

  • 作者:孝行, 菅
  • 発売日: 2018/11/17
  • メディア: 新書