美術の社会性について

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 古い資料を処分するため押し入れの奥から引っ張り出していた中に、「針生一郎氏『芸術の役割』を語る」という小冊子があった。銀座のギャラリイKで行われたギャラリー・トークをまとめてギャラリイKが発行したものだ。トークの日付は24年前の1996年4月10日。トークが済んだ後、10人ほどの聴衆の質問に針生さんが答えている。その一人「I氏」というのは私のことのようだ。発言順にA,B,C…と命名されているので私は9番目の質問者らしい。

 

I氏「……先生のおっしゃられた“社会性”というのが、私はよくわからないので、教えていただければと思ったんですが。あの、建畠晢さんが、日本のインスタレーションっていうのはみんなお花畑だって言っていて、うまいことを言うなと思ったんですが、私は、キーファーが、先生が前に引用されて、社会性というものを取り入れて芸術的にすごく成功していると、確かにそのとおりだと思うし、私の好きな若いインスタレーション作家で、作間敏宏さんていう方が、いつも電灯を使って、家族とか、社会とか、国家とか、生命とかそんなものを表現しているのを見ても、先生が社会性を取り入れることがすごく大事だって言うことは、そう思うんです。ただ一方で、野見山暁治の最近の仕事とか、村井正誠の最近の仕事、それから私は今日の中津川浩章さんの絵も好きで、何度も見ているんですけれども、見るたび良くなって、今日なんかすごく“こんなところまで来たんだ”って感動したんですけども、今あげた野見山氏、村井氏、中津川さんの仕事を見ましても、直接社会性がここにある、というふうに思えないんです。それは、そういう仕事のなかにも何らかの意味で社会性っていうことを見るべきなのか、あるいは違う考えなのか、そのへんをちょっと教えて頂きたいと思います。」

 

針生「ちょっと違う角度からお答えすると、北川フラムという人が中心になって“アパルトヘイト・ノン”という展覧会を日本に持ってきたんです。スペインの美術家が提唱してですね、南アのアパルトヘイトに反対するということでヨーロッパを中心に作家たちが賛同して、展覧会が各地を巡回したわけですけれども、日本人は、ヨーロッパに住んでいる田淵安一だけ入っているんです。その中に実は、アパルトヘイトのテーマを具体的にとりあげた作品と、ふだん自分のことばで表現している作品を出品しながら、アパルトヘイトという基本的人権にかかわる問題には“ノン”と言いたいという人と、二種類あった。デリダとかそういう人たちが序文を書いているんですが、参加のしかたはそれぞれでいいんだと。テーマを扱う人もあっていいし、それとは関係なしに、自分のふだんの表現をして、その作品で参加するということも、これは抗議になるんだ、というふうに書いていました。私もそのとおりだと思うんですね。ただ、一方には社会的、政治的テーマを扱ったような作品が、日本にはほとんど無くなった。今の、作間敏宏の作品は僕はあまり見たことがないんで、大変おもしろい話ですから、これから見ようと思いますけども、そういうものがほんとに少なくなってしまった。つまり、“自分は、抽象的な仕事をしている、抽象だから、そこには社会的なテーマのようなものは入らない、入れる必要はない”。それでいいんですよ。しかし、アパルトヘイトとか、あるいはなんでもいいですよ、政治犯として美術家が捕らえられている状態を黙視できないとか、それにはやっぱり自分のふだんの作風で参加して、抗議の意志を表すということでいいと思うんだけれど、それが田淵安一しかいないっていうことね、日本人で参加した人は。自分は、例えば抽象表現主義とかいう作風であっても、そういう展覧会があれば参加するよっていう人が、もっと日本にあるべきだと思うんだけども。つまり、中津川君のような作風でやっていることも、そういう基本的な人権や社会問題にもつながるんだという自覚がないんですね。そこが残念だと思います。北川君のところで、ずっと“アパルトヘイト・ノン”が全国を廻ったとき、僕も実行委員だか呼びかけ人だかの一人でしたが、できれば各地でその主旨に賛同する美術家たちが自分たちの作品を並べるとか、いっしょにやるといいんだけれどなあといって、そういう展覧会が同時に開かれた土地もあります。が、全体では非常に少なかったですね。テーマということでは、現代美術が全体にそこから離れて来ていますから、それを一挙にあらゆる作家に要求するということは無理です。そんなことは必要ないと思います。」