野見山暁治100歳記念展が新春に企画されている

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  東京日本橋高島屋野見山暁治100歳記念展が1月9日から始まる(1月18日まで)。髙島屋日本橋店本館8階ホールで開催というからいつもの6階美術ギャラリーではない。大きな会場で高島屋もリキを入れているようだ。それはそうだろう、100歳記念展なんてほとんど前代未聞だから。以前小倉遊亀が100歳のときに描いた作品が話題になったけど、品のよい小品だった。なんだかアリバイのようだった。

 それに比べて野見山は当然大作の最新作を出すだろう。これが楽しみでなくて何なのか。野見山暁治財団のホームページに野見山の言葉が載っている。

 

絵描き、道楽、続けて百年もしも無人島で、生涯を送ることになれば、

今のまま絵を描き続けるだろうか。

絵は日々の生き甲斐、そう公言して憚らないが、この世の誰一人、

ぼくの絵を見てくれなければ、果してこの先、描き続けるか。

ぼくの絵を歓ぶ人が、この世にいなくても、描く。

本当はどうだか分からないが、そんなことには頓着なく、

絵描きは描き続けて、ひとり歓んでいるわけだ。

世上の評判なんか気にしない、と絵描きはうそぶく。

それで自分だけの世界に籠って悠々と 描いているかというと、実はその逆。

一般の声を、常に聞き耳たてて、あくせくしている。なにかおかしい。

この臆病さはどうしてだろう。

一般の絵を眺めるように、自分の絵について客観的な眼は開きようがない。

自分の産んだ子には盲目だ。取りあえず自分を騙し、栄光の幻想を持ち続けている。

話は違うが、一般に絵は、人の感性に訴えにくいものなのか。絵は分かりません、

とか分かるとか、こういう白々しい答え方が返ってくるのは、どうしてだろう。

他の芸術の分野では、好き、あるいは興味がない、といった殆んどが

生理的な嗜好が、はね返ってくるのに、どうして絵は、好き嫌いで

訴えてこないのだろう。

誰しも幼いころ、やたら落書きした記憶は持っているはずだ。これは感性の問題。

探求していた訳じゃない。楽しかった、面白かった。年と共にこの歓びが

遠ざかってゆくのは口惜しい。

ただ美術作品に限り、商品として売り出される。売れなければ絵描きの

生活は成り立たんし、絵の具を買うこともままならん。しかし、おかしいんだな。

絵描きは制作しているとき、売れるかな、といった思惑はない。

ただ自分の浸っている世界を吐露しようとして懸命になっている。

それは職業と言えるのか。 どうも歯切れがわるい。道楽と一口に言うが、

道楽は時に本職をそっちのけにするくらい、のめり込むものだ。

では、道楽だと突き放してしまっていいのか。いや言い切れん。

個展をやるたび、ぼくはきまりわるく会場に立っている。

 

野見山暁治

 

 

日本橋高島屋のウェブサイト

https://www.takashimaya.co.jp/store/special/nomiyama/index.html