野見山暁治画文集『目に見えるもの』を読む

   

 野見山暁治画文集『目に見えるもの』(求龍堂)を読む。野見山の絵とその文章というか断章を組み合わせたもの。口絵の写真は鬼海弘雄が撮った野見山の肖像写真。
 その一部を・・・

オンナに触れる夢は繰り返し見つづけた。今も見る。欲情するものはとっくに体内から消えうせているのに、どうしてだろ。騙されていた、セックスには実体がない、イリュージョンだ。だから生きている限り見るだろう。

 これを書いたとき、野見山さん80代半ば。そうか、まだ見るんだ。


朽ちてゆくものとは、涙を流して別れるだけだ。

 私も親しい友人を亡くしたときに、義父から細く長く涙を流すのが供養だと言われた。


戦争が終わってからは、おもに静物ばかり描いた。これはその頃、ぼくの居た福岡の街に今西中通さんが移ってきたせいだろう。この画家は石膏像で人物を描き、色あせた造花で生きた花々を描いた。わずか1年たらずで今西さんは死んでしまったが、ぼくはこの画家に倣い、頭蓋骨を置いて人物とも静物ともつかぬあるモノ、つまり手がかりを目のまえに置いて本来のものを想起しながら、それを打ち消してゆくような試みを続けた。今西さんがぼくに残していった画面という認識は、ぼくをかなり作りかえたようだ。1本の樹があたりの空間を支配するその存在感よりも、幹や枝によって区切られる空間、いわば枝々のように細かく点在する空間に目を向けはじめていた。

 今西中通が野見山に与えた影響は繰り返し語られている。

ある日、パリのミュゼ・ギメ(東洋美術館)で中国の古い絵の写真を見た。この世にこんな絵があったのか。おかしな話だが、自分が東洋人でありながら、生まれて初めて出会う驚き。山水図と題されているが、これを風景といおうと人間といおうと一向に構わない、自然を誠実に追い求めた揚句、ついに象徴と化した不思議。
しかしこれは異国で目覚めたぼくだけの体験ではないようだ。数年たつと、人は自国の文化に還ってゆくものらしい。日本から東洋画の画集を取りよせては見入る滑稽さを、それから数年くりかえして、とうとう東洋の日本にぼくは戻ってきた。

 中年以降の野見山の画面は奥行きのない平面的なものになっている。

《異邦人》や、その前後に描いた数点は、浜辺で拾ってきた水筒をデッサンして、それによる発想というか、それを展開させたものだ。かつての陸軍が使っていたものだから、ながい歳月、海の中にあって酸化し、小さい穴ぼこが一面に散らばり、みるかげもなく変形していた。
人体にもっとも縁遠い硬質の漂流物が、どうして人の顔をぼくに想起させたのか。こうした幻覚じみた思い込みに捉われることが、しばしばある。


 最後の作品はフランシス・ベーコンを思わせる。
 東京国立近代美術館の個展のときも、スリッパから展開させたという大きな抽象画が3点展示されていた。
 野見山は絵も文章も一流中の一流だ。


目に見えるもの―野見山暁治画文集

目に見えるもの―野見山暁治画文集