石原吉郎の詩集『サンチョ・パンサの帰還』のドン・キホーテとは誰か

 現在多摩美術大学美術館で宮崎進展が開かれている。それに関連して宮崎進に関するシンポジウムが行われた。メインパネラーである詩人の高良留美子が、宮崎進同様シベリアに抑留されていた詩人石原吉郎に触れて、石原吉郎の処女詩集が『サンチョ・パンサの帰還』と題されていることについて話した。サンチョ・パンサドン・キホーテの従者だ。シベリアの抑留から帰還した石原がサンチョ・パンサと称するなら、ではドン・キホーテは誰なのかと。高良はそこで、石原が考えていたドン・キホーテを今村冬三は天皇だと書いていると紹介した。
 シンポジウムが終わったあと、高良にそのことについて教えを乞うた。今村冬三の著書『ひとりよがりの詩人論』(ゆるり書房)に書かれていると教えてくれた。
 この本は自費出版だったらしく、入手不可能で、図書館に依頼して国会図書館から取り寄せてもらった。今村は1928年生まれ、本書は2013年の発行となっている。この中に「石原吉郎研究ノート」という小論があり、そこに「サンチョ・パンサの主人について」という項がある。その途中から終わりまで引用する。

 さきに石原吉郎から私が抱くイメージは、サンチョ・パンサよりはむしろその主人に似る、といったが、彼の言葉に従って、彼をサンチョ・パンサとすれば、その主人ドン・キホーテ石原吉郎は誰をなぞらえていたのだろうか、との思いが湧いてくるのは自然な成り行きというものであろう。
 考えてみるにこの両者は単に主従というだけでなく、〈対〉で考えるしかないような関係の二人である。石原吉郎が何ものかをドン・キホーテになぞらえていなかったはずはない。しかし彼はその名を口にすることはついになかった。恐らく彼はその名を「棒のように呑み込んだ」のだ。


 「告発の一行を斬り捨てることによって私は詩の一行を獲得した」という彼の言葉はあまりにも有名だが、注意ぶかく彼の言葉を辿るとき、彼のいう〈告発〉が極めて狭義の、それもある偏りをもったものであることに気づくであろう。
 石原吉郎の初期の詩業は〈不告発〉という彼の強調にもかかわらず、厳しい告発力をもった作品に充ちている。そればかりではない。そこにはドン・キホーテの姿がちらと垣間見える作品も決して少なくない。
  重心ばかりをてっぺんにおしあげて
  お祭りさわぎの魔女狩りの町では
  やつさえいっぱしの/ジャコバン党だが   (霧と町)


  うえからまっすぐ/おしこまれて
  とんとん背なかを/たたかれたあとで
  行ってしまえと/いうことだろうか
  それでおしまいだと/おもうものか   (棒をのんだ話)


  この町の栄光の右側ひだり側
  この町の栄光の膝までの深さ
  一人の直系を残すための
  憎悪の点検は日没からだ   (卑怯者のマーチ)


  われらの画面を/またいですぎる
  獅子の原型/蝶の原型
  (されどわれらは応じない)
  われらはひそかに やみにまぎれ
  王家の黒い紋章をおろし
  ぬれた手袋に火薬をつめる
  ああわれら/いまなお
  古い家紋に誠実であり
  われらの星座は/なおところを変えぬ   (古い近衛兵)


  血の出るほど打たれた頬が
  そこでもここでも/まだほてっているのに
  怒りのような巨きな背が
  はやこともなげに夕ぐれて行くか
  もうこの町は/それでいいのか
  火つけばかりが追われる町へ
  似合いのねこぜを見すてて行こう   (火つけの町)


 煩を承知で作品を列挙した意図はすでに明らかであろう。
 私は、石原吉郎は国家権力そしてその人格的表現である天皇ドン・キホーテになぞらえていたと考える。彼の関心が天皇その人にあったか、より以上に天皇制にあったかは必ずしも明らかではない。彼の特徴である歴史的視点の欠落ということを考えて、ここでは天皇としておく。彼はこの点について極めて慎重で言質となるようなものはほとんどない。あたかもそのような推測を認めたくないと言っているかの如くである。
 しかし「重心」「てっぺん」「古い家紋」「近衛兵」「直系」「猫背」などの言葉は、「天皇」以外に収斂して行く場をもたないのではないか。私は寡聞にしてここに言及した「石原吉郎」論を知らないのだが、彼らは君子だろうから危うきに近寄らないかもしれないなどとつまらぬことを思わぬでもない。とすると私もサンチョの主人に似ていなくもないが、まあそれはどうでもいいことだ。私はただ自ら納得したいだけだ。
 繰り返すようだが、彼はその生涯を通じて、天皇についてあからさまに言及することはついになかった。
 彼はよく承知していたのだ。「みづからが否定の英雄として立つ」ことが「安易な放棄」につながる道でしかないことを。「告発すれば最後には自分を告発しなければならない」ということを。そしておそらく忘れることがなかったのだ。軍隊、ラーゲリの生活を通して知った国家権力の醜さと、同時にその恐ろしさを。
 復員してきた1953年12月3日、舞鶴駅頭で「諸君を待つものは、飢餓と失業だけである」と演説して袋だたきにされた日共党員を見たとき、彼はこの国の体質を今更のように確認し、腹の底深く飲み込むものがあったであろう。
 帰国後の彼の運命がまさにこの党員の予言通りであったことは、彼がみづから告白しているところであり、その苦痛はシベリア体験以上のものだった、とさえかたっていることはさきにふれたとおりである。その苦痛で精神の背骨が軋むたびに、舞鶴駅頭での光景を思い出さずにはいられなかったろう、と私は思うのだが、彼は忘れがたい一シーンとして年譜にとどめるのみである。
 かくて彼が並々ならぬ意力で彫り上げた戦中体験は、ラーゲリに集中し、その重要な前史を欠く結果となった。別言すれば、体験はその個別性(絶対性といってもよい)は十二分に主張し得たけれども、それと引き換えのように、経験として普遍化される道は閉ざされてしまったということである。

 今村冬三は本名だろうか。もしペンネームなら昭和3年生まれだから昭三かもしれない。戦争のために学ぶ機会を失ったと書いている。本書は石原吉郎論と吉本隆明論が中心だ。なんとか入手してじっくり読んでみたい。