松浦理英子の新作『最愛の子ども』を読む

 松浦理英子の新作『最愛の子ども』(文藝春秋)を読む。これも奇妙な本だ。女子高生たちのグループが描かれている。彼女たち以外は教師たちが少し、母親たちが少し描かれるだけで、男子高生の関わり方もわずかだけだ。共学だけれど、女子と男子は別クラスになっている私立高校が舞台だ。その女子クラスの中にとても親しくしている3人がいて、仲間から「ファミリー」と呼ばれている。3人は舞原日夏がパパ、今里真汐がママ、薬井空穂が子どもと言われている。3人の関係が物語の中心になる。
 奇妙なのは語り口だ。三人称小説ではなく一人称で語られるのだが、それが一人称複数なのだ。「わたしたち」と言う語り手はクラスの仲間たちで、しかし物語は三人称で語られているように進む。その仕組みはこうなっている。

……わたしたちはわたしたちの見ていない所で何があったのか想像し、何が起こっているのか、これからどんな成り行きになるのか思いめぐらし、現実に知りえた情報を基にしつつも、わたしたちを納得させ楽しませるストーリーを妄想を織り交ぜて導き出そうとする。日夏と真汐と空穂に向ける目はよりいっそう欲望にうるむ。

 そんなわけで、密室で繰り広げられる3人の行動が詳しく語られる。しかし、それらは「現実に知りえた情報を基にしつつも、わたしたちを納得させ楽しませるストーリーを妄想を織り交ぜて導き出した」ものなのだ。客観的な記述に見えるが、上記の前提からどこまで真実なのか分からなくされている。
 物語はさほど複雑でもなく、大きな事件が起きるわけでもない。日夏と空穂がレズ行為をしていたと空穂の母親に誤解され、日夏が退学するくらいのものだ。かと言って、女子高生たちの生態や会話が生々しく語られるわけでもない。
 この女子高生の生態や会話ではむしろ橋本治の「桃尻娘シリーズ」の方がよく書けていたのではないか。しかし松浦がそのことを狙っていたのではないことはよく分かる。そう書いて気がついたのは、橋本も松浦もLGBTだということだ。本書には女子高生同士の恋愛感情が描かれている。しかし、松浦の作品にしばしばみられるマゾヒズムの影はあまり大きくない。
 読み終えて、以前読んだ『親指Pの修行時代』同様ちょっと物足りなかった。やはり初期の『セバスチャン』や『ナチュラル・ウーマン』あたりが私の好みだ。好きな作家の一人ではあるが。


最愛の子ども

最愛の子ども