高階秀爾『日本人にとって美しさとは何か』を読んで

 高階秀爾『日本人にとって美しさとは何か』(筑摩書房)を読む。高階は現存の美術評論家として第一人者の大御所だ。新しい日本の作家たちを紹介した3部作『日本の現代アートをみる』『ニッポン現代アート』『ニッポン・アートの躍動』(いずれも講談社)はとても良かった。紹介された100人近い作家の選定も高階の確かな眼を感じさせたし、個々の作品を解説する文章が見事だった。さすが大御所と感じ入った。だから本書も期待して読んだ。
 最初に「言葉とイメージ 日本人の美意識」という講演録が収録されている。一昨年の静岡県での講演とあるが、どんな聴衆相手なのか分からない。あまりレベルが高くないのは一般の人を前に話したものだろうか。第2部では日本の絵画と西洋の絵画を比較している。日本の伝統絵画や、江戸末期から始まった日本の洋画について意外に高く評価していて勉強になりおもしろかった。
 第3部は「日本人の美意識はどこから来るか」と題されているが、多くサントリー文化財団発行の雑誌『アステイオン』に連載したもの。必ずしも美術に関することのみを書いているのではない。これがあまりおもしろくなかった。思うに、高階は一般向けに書くエッセイの類が得意ではないのだろう。ただ、一昨年の東京国立近代美術館で開かれた菱田春草展に関する「きらめく朦朧体」が興味を惹いた。

 東京北の丸の国立近代美術館において、久しぶりに菱田春草の大がかりな回顧展が開かれた。私はかつて、明治期の日本画日本美術院さえあれば、あとはなくても良い、日本美術院は春草ひとりいれば他の人はなくてもいい、そして春草は「落葉」一双あれば充分だというような、はなはだ乱暴な発言をしたことがあるが、今改めてその36年の短い生涯の画業を通覧して、明治期のみならず日本近代絵画史上の上で、さらには日本美術の全体の流れにおいて、忘れることのできない大きな仕事を残した天才という思いを禁じ得なかった。

 なんと、この大御所の日本画と春草に対する評価は、日本現代美術の異端とも言うべき会田誠日本画と春草に対する評価と相当に重なっているのだ。会田誠の春草論を記す。

 僕は菱田春草の画集を見るのが好きです(僕が持っているのはポケット版ですが)。まず前半にえんえんと続く、朦朧体などの描法の変遷、および古今東西に亘る画題の変遷……。なんという試行錯誤の連続、〈近代日本美術〉の産みの苦しみでしょう。そしてその暗中模索の果てに辿り着く、あの『落葉』の清澄な境地……。僕はここでいつもアドレナリンが分泌されるのを感じます。「すべてを諦めきった後に残った、たった一つのかけがえのない充実……」。僕の頭にはこんな直感的な言葉が浮かびます。ここにはもはや日本や東洋の上っ面だけの美化や荘厳化はなく、しかし西洋への不自然な追従もありません。「これはほとんど日本の、明治の、あの社会システムの〈良心〉が絵になったような絵じゃないか……」。そんな言葉がふと口をついて出ます。明らかにこの時初めて〈日本画〉がこの世に誕生しました。そして盟友横山大観を含めて、この後誰がこの『落葉』を超ええたでしょう。だから僕の最も乱暴な日本画論はこうなります−−日本画は『落葉』に始まり、『落葉』に終わった−−。ページをめくるとアンコールの小曲『黒き猫』があり、その悲しい調べを残して突然幕が下がります。ああ、これは一体なんて画集なんだろう!

 これは会田誠『美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか』(幻冬舎)に書かれている。会田も意外に硬派なのだった。