『鴨居玲 死を見つめる男』を読んで

 長谷川智恵子『鴨居玲 死を見つめる男』(講談社)を読む。鴨居玲展が先月まで東京ステーションギャラリーで開かれていたのに見逃してしまった。本書はこの個展に合わせて出版されたのだろう。著者は日動画廊の副社長で、鴨居とは東京日動画廊での初個展以来20年近い付き合いだという。
 鴨居は昭和3年(1928年)石川県金沢市生まれ、金沢美術工芸専門学校(現金沢美術工芸大学)に入学、宮本三郎に師事したとある。31歳でフランスへ行き、その後も南米、パリ、ローマを渡り歩き、再びパリやスペインに住み、49歳のときに帰国し、神戸にアトリエを構える。昭和60年(1985年)自宅にてガス自殺を遂げる。享年57歳。
 本書は鴨居の生活を中心に語られる。若いころは姉の下着デザイナー鴨居洋子の援助を受けていたこと、長身でハンサム、おしゃれで着こなしも日本人離れしていて女性たちにもてたこと、結婚したがすぐに別居に至ったこと、多くの女性に愛されたこと等々。画家としてはなかなか芽が出ず、40歳になってようやく大阪日動画廊で個展が開かれ、評判も良くほとんど売れたのだった。この個展は姉の鴨居洋子が友人の司馬遼太郎に相談して、司馬が日動画廊を推薦したことから実現したのだった。翌年日動画廊が主宰する昭和会展で優秀賞を受賞、さらに安井賞も受賞した。以来、鴨居は日動画廊と二人三脚の歩みとなると長谷川は書く。
 長谷川は東京日動画廊での個展から鴨居と親しく付き合ってきた。最初の出会いで鴨居の容姿に惹かれている。三船敏郎にどこか似ていて、国際的な雰囲気があったと書く。智恵子は夫長谷川徳七とたびたびパリに出かける機会があり、海外に移住した鴨居とは行く度に会うようになり、一緒に飲んで楽しんだ。
 鴨居は子どもを作らなかったがセントバーナードやシェパードを飼って可愛がった。息子のような存在だったとキャプションのついた犬と並んだ写真が掲載されている。鴨居個人の写真図版は多い。格好いいし、ハンサムで、まるで芸能人のような扱いだ。和服に着飾った著者とのツーショットも多い。
 昭和57年(1982年)頃から、作品には「死の影」がちらつくようになる、とある。その自画像を「死の恐怖に茫然自失した鴨居である」と書かれる。仕事に疲れ、心筋梗塞を起こしかけたこともあった。即入院と宣告されたが、個展を控えていたので作品制作を優先して、1週間後にようやく入院した。しかし、鴨居はこのときの病気で亡くなったのではなかった。
 本文最後の「6章 鴨居の生き方」に至って、唐突に「鴨居は昭和60年9月7日に自分で人生の幕を下ろしてしまったが、その前に、何度も、自殺未遂をしている」と書かれる。鴨居は個展の作品が出来上がった時、満足のいく作品が仕上がった時に自殺願望が湧き上がったという。また周囲に甘えたい時にも自殺という手段を使ったと。
 本書ではこんなふうに鴨居の外面的な歴史がたどられる。だが、鴨居の個人史は点と点を結んだような印象で、そのような生を選んだ鴨居の心情がよくは見えない。肝心なことは、これが画家の伝記だというのに、作品についての評価があまり書かれていないことだ。なるほど大きな賞を受賞した、日動画廊のほか海外の画商が作品を取り上げて個展を開催した、とは書かれている。本文中に美術評論家坂崎乙郎や瀧悌三の名前が散見されるが、彼らの評価はどうだったのだろう。
 東京ステーションギャラリーの個展を見てないので、断定的なことは言えないが、何かもう一歩魅力が感じられない画家なのだ。自殺を繰り返していたことも驚きだった。そういえば本書の題名が「死を見つめる男」とあった。本書を読んでいる限りその題名はそぐわないとしか思えない。つまり長谷川は鴨居のことが書けていないと言わざるを得ない。文章もステロタイプの表現が多かった。あらためて瀧悌三が書いた伝記を読んでみよう。



鴨居玲 死を見つめる男

鴨居玲 死を見つめる男