読書のメカニズム

 本を読んでいるときに電話がかかってきたり、来客があってチャイムが鳴ったりして読書が中断されることがある。用件を済ませて本に戻ったとき、最後に読んだ2行ほどは、確かに読んだ記憶はあるものの、その内容を理解していないことがしばしばある。このことから読書のメカニズムとして、眼で活字を追うことと、その意味を理解することには時間差があることが推測される。眼で活字を追う。それに遅れて追った活字を脳が理解していく。それらがフーガのように同時進行しているようだ。
 読書の速さというのは、眼が活字を追うそのスピードがひとつの要素となる。眼がすばやく活字を追うことができれば読書のスピードは上がることになる。しかし、一方それを理解する時間がもう一つの大きな要素で、難解な内容では理解するために時間がかかるのは誰もが経験することだ。
 私は本を読むスピードは結構速い方だと思っているが、いわゆる速読術については全く知らないので、速読術の方法にも上記のことが当てはまるのかは分からない。ただ速読術によって理解力が高まるとは思えない。
 昨日紹介した『鴨井玲 死を見つめる男』は本当にすらすら読むことができた。おそらく記述の密度が薄いので、理解するための時間が少なくて済んだのだ。以前読んだ加藤周一『日本文学史序説 上巻』(ちくま学芸文庫)は読み終わるのにきわめて時間がかかった。本書は万葉集から江戸の元禄文化までを扱っている。加藤は文学を通じて日本の思想を探るという方法論で本書を執筆している。するとその記述の密度は半端なものではない。一部引用する。

 果たして30余年の後、晩年の空海は、その主著『十住心論』10巻(830)を書く。(中略)
 すなわち『十住心論』の10段階は、第4以後、声聞・縁覚・菩薩道(大乗)の5段階として、真言の秘儀に到る仏道修行の組織的な道程を示すばかりでなく、外道(老荘を含む)、小乗の2説、大乗の5派(法相、三輪、天台、華厳、真言)の異なる教説を要約しながら、後説が前説を踏まえてその上に出るものとし、その全体を段階的に秩序づけている。秩序づけの原理は、人(我、心)と境(世界)との関係、または主観と客観との関係の定義如何ということである。すなわち各説各派の排列は、論理的であって、歴史的ではない。理路整然。ここにはもはや嘗ての『三教指帰』の四六の美文はなく、簡潔明快な文章が、極度に抽象的で煩雑な観念の体系を解きほぐす。その話題が今日の読者の嗜好に投じないとすれば、そこに千年の歳月の隔たりがあるからである。観念の体系が今日なお美しいとすれば、人間の精神に時代を超えて相通じるものがあるからだろう。

 この上巻を読むのに私は2週間もかかった。下巻は近代がテーマなのでもっと読みやすく、4日間で読んだと記憶している。
 私は読んだことがないが、最も難解とされている哲学書ハイデガー存在と時間』を速読術を使って読むことはできないのではないかと推測する。眼がすばやく活字を追うことができても、脳の理解がそれに追いつけないからだ。速読術が有効なのは極論すれば週刊誌とか、内容が薄いものに限られるのではないだろうか。