ドナルド・キーン 著/金関寿夫 訳『百代の過客 上・下』(朝日選書)を読んだ。副題が「日記にみる日本人」というもの、上下2巻で平安時代の僧円仁の書いた『入唐求法巡礼行記』から徳川時代の川路聖謨の『下田日記』まで80冊近い日記を取り上げ、それぞれ3〜15ページをあてて解説紹介している。なかなか面白かった。
多くのページを充てているのは、『蜻蛉日記』14ページ、紫式部日記15ページ、『更級日記』14ページ、『建礼門院右京大夫集』15ページ、『竹むが記』14ページなどである。芭蕉の『野ざらし紀行』9ページ、『奥の細道』12ページというのは少なく見えるが、芭蕉はほかに『鹿島詣』『笈の小文』『更級紀行』『嵯峨日記』が取り上げられていて、合わせれば全部で38ページに達する。さすがキーンが日記文学の最高峰と賞賛するだけある。
連歌の巨匠と敬われた宗祇の『筑紫道記』は、紹介したページ数が6ページと少ないが、見事な文章で書かれていると綴ったすぐ後に、だが、と続けて
『筑紫道記』は見事な文章で書かれている。だが作品に行き渡る暗い影と、人間味の欠如によって、『奥の細道』ほどの人気を博すことはついになかった。宗祇の詩は、私たちに尊敬の念を起こさせる。だが芭蕉は、黙っていて私たちの愛をかち取るのである。
松永貞徳は和歌を学び連歌を学んだ。そして即興的警句として狂歌および俳諧の連歌を作った。貞徳はこの狂歌や俳諧を価値ないものと考えていたが、門弟たちによって選集が作られ、それが好評を博し、ついに俳諧という新しい詩の分野では第一人者に祭り上げられていた。貞徳の『戴恩記』を取り上げて、キーンは書く。
貞徳の俳諧詩といえども、今日読んでさほど興味を唆るものではない。だが俳諧史において、彼が一つの重要な位置を占めることは確かである。そして『戴恩記』は、貞徳というこの超保守的な詩人が、いかにして日本の詩で、最新の詩形の先達になったかを、明らかにしてくれる。
『奥の細道』について、
(……)千住で見送りの友に別れを告げた時、彼はこの旅最初の俳句を詠む。すなわち、
行春や鳥啼き魚の目は泪
この句は、それ自体傑作であるばかりか、あとに続く作品全体の主調を見事に決めている。詩と散文との、これだけ完璧な結合は、世界の文学の中でもまれなのである。
続けて書く、
芭蕉の言葉が持つ魔術を、一言で定義するのは容易ではない。だが次のような文章を読む時、それが感じ取られる。「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す」。ここでは大和言葉と熟語とが、まさに完璧に融け合い、初期日記作者による文章と引き比べて、はるかに豊潤な肌合いと、簡潔さとを生み出している。そのくせ言葉は、読者の頭の中で、徐々に大きく成長するのである。
キーンは「終わりに」で書いている。
日記文学の伝統という一筋の糸が、円仁の時代から幕末まで、いや、今日までも、断ち切れることなくつながっている。私が知るかぎり、世界中他のどのような国の文学にも、これと同じ現象を見いだすことは不可能である。中世期、あの相次ぐ戦乱の最中においても、何らかの時代の証言を、己を取り巻く瓦礫の中から、(おそらく無意識のうちに)後世に残そうとねがって、彼らは日記を書きつづけてていた。
日本の日記文学の伝統の梗概を、キーンによって教えられた。きわめて優れた仕事だと思う。それまで日本人で誰一人取り組むことがなかったのだから。毎日数ページずつ2カ月ほどかけて読んだのだった。
・讃岐典侍日記が伝える死の瞬間(2014年5月18日)
・成尋阿闍梨母の息子への執着(2014年5月14日)

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