ドナルド・キーン『日本文学史 近代・現代篇五』(中公文庫)を読む。本書は「私小説・戦争文学・太宰治と無頼派」を扱っている。キーンが英文で書いた日本文学史、つまり英米の読者を対象にしている。だから記述はていねいで、とても分かりやすい。
私小説の項で取り上げられた作家は、まず「自然主義の私小説」という見出しで括って、葛西善蔵、牧野信一、宇野浩二、嘉村礒多、ついで「志賀直哉の弟子と心境小説」として、網野菊、滝井孝作、尾崎一雄、そして「私小説の詩」として、梶井基次郎、上林暁となっている。
葛西善蔵について、「葛西は、象徴的な私小説作家と言っていいので、彼の小説を読んだ後では、他のいかなる告白小説も色褪せて見える」とまで言われている。葛西の弟子とみなされている二人の作家、牧野信一と嘉村礒多については、「それなりに興味は惹かれても、そこには葛西の自己破壊の行為が発散するむき出しの荒々しい力強さは無い」とされる。
「網野菊は、明らかに志賀のように完成された作家ではない。彼女の作品は、物語と何ら関係のない人物の登場で雑然としていて、それもただ、それに相当する実在の人物がいたからというに過ぎない」と手厳しい。「尾崎一雄は、おそらく志賀の弟子の中でも最も感銘の深い作家である」。志賀直哉と弟子たちについてキーンは書く。
日本の文学の歴史を通じて重要な役割を果たしてきた師弟の関係は、20世紀に至ってもなおこのような形で生き続けていた。志賀の弟子で心境小説の書き手である作家達は、それぞれ志賀を崇敬し、絶対の心服を示して来たが、しかし、彼らはそこからかろうじて、自分自身の声を発見した。一方、既に名前も忘れられている他の多くの作家達は、一人の人間、または作家としての志賀の威光に、ただただ圧倒されて、自己を発見するに至らなかった。
実際、1950年代に書かれた『世界の十大小説』という本で、ある評論家はそこに志賀の『暗夜行路』を選んでいた。今から60年前、志賀は日本の作家のほとんどカリスマだった。
梶井基次郎について、
……梶井の読者が惹かれたのは、その作品にある鋭い真実性でもなければ、また不治の病にとりつかれた男の生々しい描写でもなくて、その日本語で書かれた散文としての抗しがたい美しさに目を奪われたのだった。梶井は確かに大作家ではなかったが、その魅力は彼一人のものであり、その作品は心境小説の詩的可能性の極限を極めたものだった。
そして、キーンは私小説が純文学者たちや作家の社会参加を主張する人々によって何度も死を宣告されてきたが、今なお日本文学の最も典型的な形式として生き続けていると言う。
次に「戦争文学」の項で、「日中戦争」の見出しのもとに、石川達三、火野葦平、尾崎士郎が、「大東亜戦争の文学」では、中島敦が詳しく語られる。「戦争の回想と再現」として、梅崎春生、井伏鱒二、大岡昇平が取り上げられる。
火野葦平は「日中戦争が生んだ最大の人気作家」だと紹介される。だが、火野の終戦前後を描いた『革命前後』に対してキーンは厳しい評価を下す。この小説の状況設定とそれぞれ癖のある作家たちの間にかもしだされる緊張感が、セリーヌの『城から城へ』の劇的な憎しみに満ちた世界を思わせるかもしれない、と書きながら
しかし、火野はセリーヌの文体、想像力に欠けていて、そこに鮮明に描き出されたのは作者自身の姿でしかなかった。
まあ、火野をセリーヌと比べたらかわいそうかもしれない。
そして、もちろん大岡昇平の『野火』『俘虜記』『レイテ戦記』は高い評価を与えられる。
最後に「太宰治と無頼派」が語られる。この項が本書の半分近くを占める。キーンが最も力を入れているテーマだ。しかしながら、取り上げられている作家は、太宰のほかに坂口安吾、織田作之助、石川淳の3人だけだ。とくに太宰は本書全体の2割を占めている。
太宰は初期の『晩年』がていねいに分析される。そして『津軽』『斜陽』も高い評価が与えられている。
安吾と織田作は言及している分量は少なくないものの、評価は高いとは言えない。しかし、石川淳には評価を惜しまない。『普賢』『マルスの歌』『焼跡のイエス』がそれだ。さらに、
『紫苑物語』と『修羅』は、ともに石川の絶頂期を代表する傑作である。『紫苑物語』は、第7回芸術選奨文部大臣賞を受賞した。しかし、『修羅』は、これを上回る完成度の高い作品である。
ドナルド・キーンは優れた日本文学評論家だと思う。キーンの示すところに沿って、読書の指針としようと思う。
- 作者: ドナルド・キーン,角地幸男
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2012/03/23
- メディア: 文庫
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