講談社文芸文庫 編『追悼の文学史』(講談社文芸文庫)を読む。とても良い読書体験だった。取り上げられた作家は6人、佐藤春夫、高見順、広津和郎、三島由紀夫、志賀直哉、川端康成。これは講談社の文芸雑誌『群像』に追悼特集として掲載されたものを編集している。いずれも大作家たちだから追悼する作家たちもよい文章を書いている。
最初に佐藤春夫。門弟3,000人とも言われた文壇の大御所だった。追悼もさすがに著名な作家たちが15人も選ばれている。それも奥野信太郎、亀井勝一郎、山本健吉、吉行淳之介、檀一雄、柴田錬三郎、石坂洋次郎といった錚々たるメンバーだ。亀井勝一郎が、「もし日本文学の伝統の上に位置づけるなら、「王朝末期の詩人」と言っていいのではなかろうか」と書いている。当然みなが大御所を敬慕している。そんな中で、山本健吉が「最後に、永く師事した永井荷風に、その死後怒りをぶちまけられた。よくよく口惜しい思いであったと思う」と書いている。それが佐藤春夫『小説永井荷風伝』(岩波文庫)だろう。以前読んだときあまり面白くなかった記憶がある。佐藤春夫の「恨み」という視点で読み直してみよう。
高見順という作家の著書をこれまで1冊も読んでこなかった。詩集『死の淵より』くらいは読もうと思っているが。今度初めて福井県知事の私生児として生まれ、永井荷風とは従兄弟どうしだったことを知った。新田潤の語るエピソードは無名時代のもので、高見はカフェーの女給を好きになったことがある。いっしょに映画見物くらいに行った彼女の前に、すでに出来ているらしいと噂されていた画家が現れて、二人でひそひそと話し始めたとき、「ワーンと声をかぎりに子供の爆発したみたいに、高間(高見の本名)が泣き出したのである。(中略)まったく子供のようだった」。さらに別の女給に恋したときも、彼女が飛び出してきた家に帰ることになったとき、「お別れだといってみんなで飲んでいるうちに、またしても高間はいきなりワーンとあたりかまわない大声で泣き出してしまったのである」。いや、女と別れるくらいで男が人前で泣いてはいけないと思う。それをしないのが、自己批判であり反省だろう。吉行淳之介だったら絶対にあり得ないことだ。
広津和郎も読んだことがない。『松川裁判』は冤罪を訴えて非常に優れた仕事だったと思う。私の大好きな佐多稲子が「広津さんの松川」を書いている。声高にならず広津の業績と人柄を描いて、さすが佐多稲子。ただ作家としては優れた仕事を残してないのではないか。
三島由紀夫は本書の白眉かもしれないと思った。舟橋聖一、阿川弘之、瀬戸内晴美、河野多恵子、森茉莉、上田三四二が書いている。舟橋は友情をもって付き合った三島の死を惜しみ、行き届いた追悼を書いている。瀬戸口は三島の作品では、『豊饒の海』よりも『金閣寺』よりも『禁色』を選ぶと書いている。瀬戸口は『禁色』について書く。「この中にはまだ青春の力の漲った三島さんの才能のすべてが投げ込まれている。「金閣寺」の美意識も「豊饒の海」の豊かさもすべて「禁色」の中にすでに凝縮されている。或いはこの事件に隠された真実の謎も、この作品にこめられているのではないか」と。河野多恵子の追悼文は良くなかった。どうしてこれが選ばれたのだろう。
志賀直哉は戦後「小説の神様」と呼ばれた。世界10大小説の一つに『暗夜行路』を選んだ評論家もいたほどだ。藤枝静男や瀧井孝作、阿川弘之など弟子たちが書いている。阿川は「葬送の記」として志賀直哉の葬儀について詳しく書いている。だが阿川の志賀直哉伝として読むべきなのは、阿川弘之『志賀直哉(上)(下)』(新潮文庫)だろう。師について完璧に書ききっている。
最後が川端康成だ。ノーベル賞受賞の4年後ガス自殺をしている。その川端を武田泰淳がニヒリストと呼び、中村真一郎が無頼漢と自称していたと紹介している。佐多稲子が「川端さんとの縁」という題で書いている。佐多の粘るような文体が、微妙な内容を正確に書くのに相応しい。私にとって川端康成は吉行淳之介とともに若い頃から愛読してきた好きな作家だ。しかしノーベル賞には三島由紀夫の方が相応しかったと思う。
さて、たった6人の作家の追悼文集だがとても堪能した。ほかの出版社も『文学界』や『新潮』『文芸』『海』など、雑誌の追悼特集をこんなふうに再編集してくれないだろうか。講談社文芸文庫、314ページ、本体価格1500円は高くはなかった。