ジョン・バージャーの語るF. ベーコン

 丸谷才一の書評集で、ジョン・バージャーがフランシス・ベーコンについて語っていると知った。それで、ジョン・バージャー『見るということ』(ちくま学芸文庫)を入手した。バージャーはイギリスの美術評論家、作家と紹介されていて、飯沢耕太郎・監修、笠原美智子・訳となっている。目次では、スーザン・ソンタグやミレー、ラ・トゥールクールベターナー、ルオー、マグリットジャコメッティロダンなどの名前も見える。
 このうち、フランシス・ベーコンに関する論文は「フランシス・ベーコンウォルト・ディズニー」と題された10ページほどのものだった。この項のみ拾い読みした。

 ベーコンの作品は事実、狂信的な信奉者のそれである。比較されるべきはゴヤや初期のエイゼンシュタインではなく、ウォルト・ディズニーである。両者とも社会の疎外状態について問題を提示し、両者とも、異なった方法ではあるが、観る人がそれを受け入れるよう尽力した。ディズニーは疎外された状態を滑稽で感傷的に描いて受け入れられた。ベーコンはその状態を最悪の事態として捉え、拒否も希望も無意味だと主張した。彼らの作品が作画上驚くほど似ているのは−−手足を誇張する描き方、全体的な身体の形、背景と人物の関係、こぎれいな仕立て服の使い方、手のジェスチャー、使われている色の範囲など−−両者がこうした危機的状況に対して相補的姿勢を示している結果である。
 
ディズニー〈ジミー・クリケット〉とベーコン〈振り返る人物〉


 ディズニーの世界は無益な暴力に満ちている。究極的な破滅が次から次へと起こる。彼が創り出した登場人物は個性があり神経質な反応は示すが、心が欠けている(ように見える)。もしディズニーのアニメを観る前に「そこには他に何もない」といったキャプションを読み、それを信じれば、その映画はベーコンの絵と同じくらい、私たちを恐怖に陥れるだろう。
 ベーコンの作品は、よく論じられるように、特定の孤独や苦悩や形而上学的な疑問について評しているわけではない。また社会的関係や官僚制度や工業化社会や20世紀の歴史について何かを言おうとしているわけでもない。そのためには意識的である必要がある。彼の作品が示しているのは、疎外状態がそれ自体の絶対的な形をいかに求め続けているか、そして、その絶対的な形とは心の欠如であるということである。このことはベーコンの作品に、首尾一貫した真実として、表現されているというよりは提示されている。

 見事なフランシス・ベーコン論でありウォルト・ディズニー論であると思う。本の裏表紙の惹句に「……写真を学ぶ人、美術を語る人、必携の美術評論集」とあるが、あながち過剰な広告の言葉でもなさそうだ。ほかの論文もちょっと楽しみ。


見るということ (ちくま学芸文庫)

見るということ (ちくま学芸文庫)