フランシス・ベーコン展を見て


 東京国立近代美術館で開かれているフランシス・ベーコン展を見た。画集の図版では知っていたが、直接作品を見たのは初めてだった。思えばもう何十年も気になっていた画家だ。ようやく見ることができて、この展覧会を実現してくれた東京国立近代美術館に感謝したい。
 初め4月に見に行って、その後NHK日曜美術館フランシス・ベーコン展紹介番組を見た。ついで『美術手帖』3月号「フランシス・ベーコン特集」を読み、『芸術新潮』4月号「特集フランシス・ベーコンを解剖する」を読んだ。そしてもう一度フランシス・ベーコン展を見てきた。
 2度行ったのは最初に見たときに違和感を感じたからだ。ベーコンってこんなに薄いのかと思った。そう感じたのは大きな画面の中央に人物が描かれていて、背景が平面的に塗られているからだ。人物とその周辺だけが塗り込められている。習作ばかりが並んでいるのかと訝しく思った。そのこともあって、あまり見る喜びが感じられなかった。セザンヌ展、ムンク展、アンソール展、バーンズ・コレクション展、キーファー展、野見山暁治展等々、優れた画家の展覧会では必ず深い満足感が与えられたのに。なぜだろう。
 雑誌に載っている専門家たちの文章を読んでみた。多く書かれたり語られたりしていることは、ベーコンの造形的なものへの言及ではなく、ベーコンの作品の意味みたいなものだった。教皇の肖像が叫んでいることを話題にし、人物が歪められていること、線で囲われた不思議な空間のこと。
 ベーコンが正規の美術教育を受けていなく、人物を前にデッサンするのではなく写真を元に描いていることを知った。描いているところを人に見せなかったことも。
 デッサンは下手だったのだろう。ただ、同じくデッサンが下手だった山口長男やバーネット・ニューマン、ジャクソン・ポロックフランク・ステラ、ロナルド・ジャッドが偉大な画家だったのに対して、デッサンが上手かった小磯良平が上手いだけの画家で終わったように、デッサンの上手下手は作品の質に直接は影響しないはずだ。と書きながら、デッサンが下手で偉大な画家になったのは例外なく具象的な絵画を描いていない。ベーコンは具象的な画家に分類されるだろう。
 ベーコンは国際的に大きな評価を得ている。NHK日曜美術館でも大江健三郎が絶賛していた。『美術手帖』でも『芸術新潮』でもあの茂木健一郎が高く評価している。インテリに好まれる絵なのだろうか。シュールレアリスムの画家たちと同じに。
 展覧会のちらしを見返すと、こんな言葉があった。

ベーコンの作品の特徴をよく言い表しているのが、彼の次の言葉です。「アーティストは、感情のバルブのロックを外すことができるんだ。そうやって、絵を眺めている人たちを、無理矢理にでも生(life)に立ち戻らせることができるんだよ。」
見る人の、いつもは閉じている「感情のバルブ」を開ける絵。本当の「生」を感じさせてくれる絵。その言葉が本当だからこそ、プラドやメトロポリタンなど、世界の名だたる美術館が、こぞって彼の展覧会を企画してきたわけです。(後略)

 むかし初めてベーコンを雑誌の図版で見たときの印象は強烈だった。やはり叫ぶ教皇だったと思う。人間をこんな崩れるように描いている。それは唐突に現れたが、人間のある種の真実の姿かもしれないと思わせた。何よりも人間に対する不思議な描写に魅了されたのだった。
 抽象以後の具象系の画家としたら、アンゼルム・キーファーやエンツォ・クッキ、サンドロ・キア、フランチェスコ・クレメンテなどが造形的な意味ではおもしろいのではないか。
 閑話休題。ベーコンの「ファン・ゴッホの肖像のための習作」の下方に塗られた赤が、中村一美を思い出した。


芸術新潮 2013年 04月号 [雑誌]

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美術手帖 2013年 03月号 [雑誌]

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