円地文子・佐多稲子・宇野千代全集の月報集を読む

 『個人全集月報集 円地文子文庫・円地文子全集・佐多稲子全集・宇野千代全集』(講談社文芸文庫)を読む。全集に付録としてついてくる月報をまとめたもの。このような月報集は全集を全巻揃えないと読めないので、とても良い企画だと思う。同じシリーズがすでに2冊出ているが、『安岡章太郎全集・吉行淳之介全集・庄野潤三全集』も良かった。
 円地は国語学者上田萬年の娘だということは今回初めて知った。円地の小説を読んだのは、もう50年ほど前の高校生の頃になる。ほとんど覚えていない。30人が書いているが、中でも印象に残ったのが、湯浅芳子の次のくだりだ。

 円地文子宮本百合子はともに東京山ノ手の中流家庭に生まれ育ったけれど、この二人は対蹠的といっていいほどちがっている。百合子は内側に爆弾を抱き、文子は永久にくすくすとくすぶる焔硝をたくわえている。百合子は聡明であったがまたバカで、文子は利発、あくまで利発である。バカな百合子は抱いていた爆弾を破裂させて散ったが、文子はどうして、いまもくすくすとくすぶりながら、ときどきパッと焔をあげながら、執念の文学を続けている。

 湯浅が宮本百合子のことをバカだなどと書いているのは、以前湯浅と百合子は同棲していて愛し合っていたし、湯浅は亡くなった百合子が今でも好きなのだ。湯浅のバカだという言葉には百合子への愛情が色濃く滲んでいる。そのことは瀬戸内寂聴の『孤高の人』を読んで知ったが、瀬戸内の書くこの湯浅の伝記は優れたものだった。それはかつてブログに書いたことがあった。
瀬戸内寂聴「孤高の人」は湯浅芳子の優れた伝記文学だ(2007年1月14日)
 佐多稲子の章を読むと、書いているほとんどの執筆者が佐多の作品を高く評価していることが伝わってくる。同時に佐多個人に対する畏敬も共通して語られる。すると、前章で読んだ円地文子に対する執筆者たちの評価が、佐多との比較で少し儀礼的なものだったように感じられる。佐多に対するような心底からの賛辞とは違っているようなニュアンスがあるようなのだ。
 佐多稲子も全く読んでこなかった。あんたは、と昔かみさんが言った。女をバカにしているから女性作家を読まないのよ。いやボーヴォワールは読んだしと弁解した。当時はまだ金井美恵子は読んでいなかった。倉橋由美子は読んだが、文体が好きで読んだので、好きな作家というには複雑なものがあった。松浦理英子は好んで読んだが、彼女が文学の主流に属するとはまさか思わなかった。たしかに女流作家はあまり読まなかったのは事実だ。それが佐多稲子の『夏の栞』を読んで驚いた。名作だと思った。臨終前後の中野重治のことを書いている。亡くなる直前の中野とのちいさなやりとりを、その時の佐多の心の微妙で複雑な動きをみごとに文章に定着している。あまりにも感動したので、複数冊買って友人たちに配布した。そんなことをした本は、ほかにランボーの『地獄の季節』(岩波文庫)と野見山曉冶の『四百字のデッサン』(河出文庫)くらいだ。
佐多稲子「夏の栞」(2007年1月3日)
 宇野千代はどうか。執筆者たちは宇野について作品そのものよりも、彼女の人間性が深く印象に残っているようだ。大胆で強い主張のもとに生きたような宇野の人間性をみなが感嘆して見上げている。
 ドナルド・キーン宇野千代について『日本文学史 近代・現代篇6』(中公文庫)で述べていた。

 宇野は、ただ一点を除くすべての点で一流の作家とは言いがたいが、しかし、その極めて重要な一点、すなわち作品の質という点から見れば、現代日本文学のもっとも重要な女性作家数人の中に入る。

 私は宇野の作品こそ何も読んだことがなかった。これを機会に何か読んでみようかと思った。
 作家の個人文学全集の月報をまとめるというのはとても良い企画だと思う。講談社以外、他の出版社も同じような企画を立ててもらえないだろうか。