水上勉と藤本ひとみが三宜亭について書いていた

 『個人全集月報集 円地文子文庫・円地文子全集・佐多稲子全集・宇野千代全集』(講談社文芸文庫)は、全集に付録としてついてくる月報をまとめたもの。佐多稲子全集の月報に水上勉が「佐多稲子さんのこと」と題して、直木賞を受賞したころ中央公論社の主催で、羽仁進と佐多と水上の3人で講演旅行をしたことを書いている。松本市飯田市甲府市を回った。
 講演後に読者グループと話し合う会のようなものが、宿泊所の一室で行われた。その時、羽仁が子供の教育のことで質問を受け、羽仁一流の自論を展開した。佐多は黙って聞いていた。ところが羽仁がとつぜん自論を正当化しようとするあまりに、「谷崎潤一郎など」という表現のしかたで、耽美的に少年の心を描いた作品をみとめないというようなことを言った。その瞬間、佐多が「谷崎などとはどういうことですか、羽仁さん。谷崎先生は、すぐれた文学者です。すばらしい作家ですッ」と叱咤した。

 ただそれだけのことだ。あれは飯田の三宜亭だったかと思う。サンギテイとおぼえていて、「宜」の字はまちがっているかもしれない。泊った宿さえそんな記憶でしかないのに、この時の佐多さんのきびしいお顔が忘れられないのである。私たちは、翌日、飯田から、天龍川を舟下りした。(中略)天龍狭で舟を降り、精進料理の店で昼食をとったが、佐多さんは、羽仁さんに対して、前夜のわだかまりをどう処理されたか、微笑しておられた。

 三宜亭は飯田市の割烹旅館だ。市内の段丘の突端に位置していて、最近は「天空の城」などと称している。「天空の城 三宜亭」というときの「天空の城」を広告業界ではショルダーという。選挙の立候補者のタスキみたいだからだろうか。
 三宜亭には入ったことがない。その近くまで行くと、目の前が大きく開けていて、眼下の天龍川の向こうにわがふるさと喬木村河岸段丘が正面に控えている。そのまま見上げれば稜線には村堺をなす鬼面山が見えるだろう。
 三宜亭については、飯田市出身の女性作家藤本ひとみが『離婚まで』という半自伝的小説でわりあい詳しく書いている。

 三宜亭は、明治維新で取り壊された飯田城の一部を利用して造られたという高級旅館である。可奈子(主人公)の小さな頃から、躑躅(つつじ)の庭が有名で、その季節になると、地元の有力者の宴会が引きも切らぬという噂だった。可奈子は、一度も見たことがない。
(中略)三宜亭の玄関を左に曲がると、長姫(おさひめ)神社の境内に出る。江戸時代、飯田城の本丸があった場所である。当時の門や、石垣の一部が残っており、それらの上で、下枝が枯れて勢いのない老いた松が、かろうじていかめしい静寂を取りつくろっていた。
(中略)長姫神社を出ると、二の丸から出丸の跡地にかけて、美術博物館と小学校が建っていた。南アルプスの稜線を象る白銀の屋根をのせた美術博物館の場所には、以前は、高校があった。昔、甲子園で優勝したという長姫高校である。

 この美術博物館が、飯田市美術博物館で、郷土出身の菱田春草を収蔵し展示するために作られたのだった。設計は飯田市出身の建築家原広司。美術館の前庭に江戸時代から伝わる樹齢450年という安富桜がある。家老の安富氏の庭に植えられていた桜ということだ。
 またこの美術館にはわが師山本弘の油彩が50点以上収蔵されてもいる。まだ一度も個展が開かれたことはないが。以前、行政からきていた副館長にぜひ個展を企画してほしいと希望を述べたところ、美術館は市民の税金で運営されている、山本さんの個展に税金を使ったら市民が納得しないだろう。なんであんなアル中の酔っぱらいのために税金を使わなければならないのか。
 飯田市は郷土が生んだ菱田春草のために美術館を作り、同じく郷土の誇りである詩人の日夏耿之介を名誉市民第1号として認定し、その詩碑をりんご並木に建てている(難しくて市民には読めないけれど)。はばかりながら飯田市は文化都市なのだ。酔っぱらいの絵描きのために使う税金などあるわけがない。
 佐多稲子水上勉から三宜亭に来て、そこから藤本ひとみに進み、飯田市美術博物館に移って、わが師に関する愚痴をこぼしてしまった。


三宜亭のホームページ http://www.sangitei.com/
飯田市美術博物館 http://www.iida-museum.org/

離婚まで (集英社文庫)

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