『素描 埴谷雄高を語る』を読む

 『素描 埴谷雄高を語る』(講談社文芸文庫)を読む。編集が講談社文芸文庫となっている。72人という多くの文学者たちが1人あたり3〜4ページという分量で埴谷について書いている。全体が3つに分かれ、それぞれ埴谷生前に刊行された『埴谷雄高作品集』(河出書房新社)の月報、『群像』1997年4月号(「追悼 埴谷雄高」)、亡くなったあと刊行された『埴谷雄高全集』(講談社)の月報から採られている。72人という数字はめぼしい文学者や評論家などが網羅されているように見える。いや、そんなことはないけれど。
 私は埴谷の作品はひとつも読んでいない。何か難解な印象が強く、1冊は持っているのになかなか手に取る気が起きないのだった。
 さすがにこれだけ多くの人の埴谷に対する思いを読めば、埴谷の人柄のおおよそのイメージが掴めてくる気がする。もっとも、その思想や小説に関しては著書を読まなければ分かりはしないけれど。
 追悼の中から瀬戸内寂聴の文章の最後を引く。井上光晴の葬儀の日に、みんなで新宿のバーに繰り出して飲んだ。

 この日、私はまたとんでもないことを言ってしまった。「もう早くあっちの世界へ行きたいでしょう」埴谷さんはとても上機嫌だった。「だってこの世よりもあっちに、もうみんないい人たちがいるし……百合子さんだっているし」
「おお、百合子さんがいるぞ、ぼくは今度あっちで会ったら百合子さんの手をしっかり握って、もう絶対離さないからな」
「泰淳が怒りますよ」
「何をいうかあなた、地獄に所有権なんてないんだぞって、泰淳に云ってやる」
 埴谷さんは武田百合子さんをとても好きだった。引導を渡しに来たみたいと私は心の中でおわびをしながら、また、口をすべらしていた。
「向うではみんなで歓迎会ですね」
「そうだ無限歓迎会、あなた、ゆっくり来なさい、それこそ大無限歓迎会をやろう。待ってるけどゆっくりね。そして最後の歓迎会」
「沈鐘歌ってくださいね」
 その晩、埴谷さんは40度近い高熱を出されたと漏れ聞いて、私は青くなった。でもそれから1年3カ月、埴谷さんは生きつづけてくれた。

 鎌田慧の全集の月報は「埴谷雄高花田清輝」と題されている。その末尾、

 わたしは、60年から70年にかけて、花田清輝を政治的に読み、埴谷雄高を文学的に読みすぎていた。いま、花田を本来の文学に即して読むのと同時に、埴谷雄高を政治的に読む必要があるのかもしれない。あるいはその反対に、政治的に読んだものを文学的に、文学的に読んだものは政治的に、もう一度読み直す作業が必要な時代のようだ。

 針生一郎が全集の月報に書いていることも興味深い。

(……)わたしはその(埴谷の)政治思想がアナーキズムに近いと感じて、サド裁判の弁護側証人会議などで会うたびに彼に質問した。彼はまた社会主義国の招待を受けてはならぬ、新日本文学会ソ連作家同盟のような位階性と官僚制を全否定すべきだとも書いた。そこでわたしが1965年ソ連作家同盟招待の〈日ソ文学シンポジウム〉に参加したことを弁明すると、彼は「いや、原則をふまえていれば、招待に応じた上でソ連批判を書くのも一法だろう」と応えた。その意外な寛容さがかえってわたしには、埴谷の現実把握にある「目黒のサンマ」風の偏向を感じさせた。彼がときおり「抵抗の文学の素質あり」とわたしに紹介してくる若者が、たいてい革マル系なのもその疑いを助長させる。
 花田の追悼記で埴谷は、「その自宅での葬儀には、花田門下の双璧というべき武井昭夫針生一郎も当然参列していた」と言及した。わたしはその直後「図書新聞」に寄せた『死霊論』のマクラで、今述べた想いをこめて「だが、武井が葬儀の受けつけをつとめた上、火葬場まで行ったのに、わたしは自宅の会葬だけで帰り、だれがみても花田の一番弟子の安部公房はついに姿もみせなかったという、温度差をみおとしている」と指摘した。

 中村稔は埴谷に初めて会ったのは1961年に始まったサド裁判だったと書く。被告が澁澤龍彦であるサド裁判の弁護士として中村は特別弁護人の埴谷に会った。中村がその時のことを語る。

 サド裁判の一審の終りに近く、検察官の論告が予定されていた期日に、被告人の澁澤龍彦さんが無断で欠席した。澁澤さん自身の文章によれば、「一度くらゐ法廷を侮辱してやらなきや、腹の虫がおさまらねえぞ!」という気分だったそうである。「ちようどその頃、霞関の裁判所では、温厚な裁判長が時計の針を見つめながら、沈痛な面持をしていたそうであるし、弁護士と検事は真赤になつて怒つていたそうである」、と澁澤さんは愉しそうに続けている。「真赤になつて」は陳腐な常套句だが、弁護士の中でも私が激怒したことはまちがいない。澁澤さんにとっては弁護士を含めた法的秩序の側にある者はすべて敵なのであったが、私はそこまでとは理解していなかった。数日後に、埴谷さんが私の事務所に訪ねておいでになった。自著を2冊献呈の署名してお持ちになり、澁澤さんにかわって、丁寧にお詫びして下さったのである。澁澤さんからは一言の挨拶もなかったが、ある時、埴谷さんから、君のところへ謝りにいったことがあるね、といわれて、まざまざと当時の光景を思いだした。埴谷さんは優しい方であった。埴谷さんの文学は難解だが、その底にあるのは人間に対する優しさだと私は考えている。

 澁澤龍彦の小児性が露呈している。バッカじゃなかろか。
 深夜叢書社齋藤愼爾は全集の月報に「魂の気圏で」と題して書いているが、その末尾。

 埴谷氏は「友人に一番のぞむことは?」と問われ、「無限の時間のなかで偶然一緒に生れあわせた哀感」と答えている。古田武彦氏は人類の時間の流れの中で、近々数千年くらいは同時代だ。人類がこの地球上に誕生して、やがて死に絶えるまで、それがたとえ数億年であろうと、さらに一層広大な宇宙の生成の歴史からみれば、すべて《人類期》とも呼ぶべき特定の『同時代』とみることさえ、できる」という。何万年前に旅立った星の光がいま私たちの目と衝突する。無限の宇宙史の中の「出会い」と「別れ」−−いまこの瞬間に宇宙の開闢に立ち会っているという意味では埴谷氏と私との出会いも、これから始まるともいえるのである。

 おお、ここで古田武彦の名前を見るとは! 齋藤も古田シンパのひとりなんだ! 
 さて、これを機に埴谷雄高の作品を何か読んでみよう。