三島由紀夫『作家論』を読む

 三島由紀夫『作家論』(中公文庫)を読む。森鴎外尾崎紅葉泉鏡花谷崎潤一郎、内田百�瑶、牧野信一稲垣足穂川端康成尾崎一雄、外村繁、上林暁林房雄武田麟太郎島木健作円地文子の15人が取り上げられている。全体の3割を占める林房雄論を除いて、すべて各種の文学全集の解説として書かれたものだとあとがきで三島が書いている。続けて、

 文学批評としてこの作家論を読む人は、すべての作家に私が肯定的でありすぎることに疑問を抱くかもしれない。しかし私の頑なな態度として、気に入らぬ作家の解説は一切引き受けなかったのであるから仕方がない。これはもちろん、この作家論収録以外の作家がすべて気に入らぬということを意味しない。好きな作家の巻であっても、解説の依頼がなければそれまでであった。

 しかし解説で関川夏央は、三島が川端康成の解説を担当したことについて、「川端は三島を最初に認めてくれた作家であったから当然だといえるが、原稿には熱意が感じられない。恩義は恩義として、川端の作品や生き方は三島から遠いものであったのだろう」と書いている。
 鴎外について特に高い評価を与えている。それに対して漱石は「より通俗的な」と形容している。

 鴎外は、あらゆる伝説と、プチ・ブウルジョアの盲目的崇拝を失った今、言葉の芸術家として真に復活すべき人なのだ。言文一致の創生期にかくまで完璧で典雅な現代日本語を創り上げてしまったその天才を称揚すべきなのだ。どんな時代になろうと、文学が、気品乃至品格という点から評価されるべきなら、鴎外はおそらく近代一の気品の高い芸術家であり、その作品には、量的には大作はないが、その集積は、純良な檜のみで築かれた建築のように、一つの建築的精華なのだ。現在われわれの身のまわりにある、粗雑な、ゴミゴミした、無神経な、冗長な、甘い、フニャフニャした、下卑た、不透明な、文章の氾濫に、若い世代もいつかは愛想を尽かし、見るのもイヤになる時が来るにちがいない。人間の興味(グウ)は、どんな人でも、必ず洗練へ向って進むものだからだ。そのとき彼らは鴎外の美を再発見し、「カッコいい」とは正しくこのことだと悟るにちがいない。

 さて、三島の50年前のこの予言は当たっただろうか。
 尾崎紅葉泉鏡花に対する三島の嗜好は納得できる気がする。
 谷崎潤一郎について、「―氏は、他への批評では三流の批評家だったが、自己批評については一流中の一流だった」と書いている。
 円地文子の「女坂」を「ひょっとするとこの作品は、志賀直哉氏の「暗夜行路」に匹敵する古典として残るのではないかと思った」とまで評価しているのも驚きだった。
 尾崎一雄、外村繁、上林暁は文学全集で1巻に収められているので、三島は三者を併せて論じていて、そこにこんなことを書いている。

……先に結論を言うのも身も蓋もない話ではあるが、この三作家を並べると、はなはだ対蹠的な山容を持った尾崎・上林両峰に比べて、外村繁氏はそれなりに親しみやすい丘陵ではあるが、些か文学的海抜が低いことを認めないわけには行かないのである。

 三島が最も熱心に論じた林房雄について、私は興味を持つことができない。だからここでも触れることはない。