長谷川櫂『俳句の誕生』を読む

 長谷川櫂『俳句の誕生』(筑摩書房)を読む。長谷川は朝日新聞の俳壇の選者だし、読売新聞に「四季」というコラムを持っていて、毎日俳句や短歌を紹介している。以前伯母の俳句が取り上げられたとき、ここに紹介したことがある。「四季」で紹介したコラムを集めた『麦の穂―四季のうた2008』(中公新書)を読んだこともあった。
 中世(鎌倉、室町時代)に連歌が流行した。そこからやがて「滑稽を主とする俳諧連歌」が生まれた。これを「優美を主とする連歌」に対して「俳諧連歌」、単に「俳諧」と呼んだ。この俳諧連歌俳諧を明治になって連句と呼ぶようになった。対して1句からなるものを俳句と呼んだ。連句は連ねる句の数に応じて百韻(百句)、世吉(=よよし、44句)、歌仙(36句)などの形式があったが、江戸時代に流行し、芭蕉が心血を注いだのは36句の歌仙だった。
 俳句は歌仙の発句(最初の1句)が独立して誕生した。長谷川は芭蕉の「古池」の句を論じる。それまで蛙=かはづは鳴き声が歌われていた。和歌においては「かはづ」河鹿の声は山吹の花と取り合わせるのが鉄則だった。弥生(旧暦3月)も末のころ、芭蕉庵に集まって句を案じていると、蛙が水に落ちる(飛びこむ)音がときおりするので、芭蕉がまず「蛙飛こむ水のおと」の七・五を作った。其角が「上五は山吹がいいのでは」と言ったが、古池に決まった。其角の提案した山吹は王朝以来の和歌の伝統に則っていた。芭蕉の選択は和歌の伝統を拒否し俳諧の新しい道に入ろうとしていたと長谷川は書く。
 長谷川は近代俳人として、一茶を挙げる。一茶はこれまで芭蕉や蕪村より格下の俳人とみられてきた。一茶は「子ども向けの俳人」と軽んじられてきた。一茶は江戸時代後半の大衆化=近代化時代の俳人だった。芭蕉や蕪村の時代は江戸時代前半の古典主義の時代だった。古典主義時代、俳句をするのは古典の知識のある教養人たちだった。近代大衆社会が出現すると、古典を知らない人々も俳句をするようになる。そうなると芭蕉のように古典を踏まえた俳句はもはや通用しなくなり、日常の言葉で俳句も詠まれるようになる。その要請にもっともよく応えたのが一茶だった。

 一茶の句の特色はまず古典文学に頼らず、誰にでもわかる日常の言葉で描かれていること、次に作者の気持ちが生き生きと、ときに生々しく描かれることである。この二つは俳句にかぎらず近代文学がそなえるべき条件である。

 わかりやすさと心理描写。この二つは近代文学の条件だった。そしてそれを備えた近代大衆俳句は子規になってはじめて生まれたのではなく、一茶の時代にすでに誕生していた。子規は一茶からつづく俳句の大衆化の流れの中で俳句を作っていたのである。子規は「近代俳句の創始者」の栄誉を一茶に譲らなければならないだろう。

 第9章「近代大衆俳句を超えて」には厳しく興味深い意見が綴られている。虚子は大衆に対して、客観写生、花鳥諷詠の標語を提示した。しかし、虚子自身はこれらの標語に束縛されることなく想像力を自由に働かせて句を詠んだ。虚子の批判者となり、同時に虚子の真の後継者となったのは加藤楸邨飯田龍太だった。二人とも言葉の想像力を自由に遊ばせて俳句を詠んだ。
 敗戦が日本と日本人を変えてしまったと誰でも思っているが、そうではないと長谷川は言う。昭和30年代に始まった高度成長が古い日本と日本人を内部から破壊し、新しい日本と日本人を出現させた。高度成長時代(1954−73)に入ると、近代大衆俳句は飽和状態に達し、内部から崩壊が始まる。誰もが批評めいた発言をし、誰もが選句をするようになった。その結果、どれが良い句でどれがダメな句かわからなくなってしまった。その背景にあったのは虚子の死だという。俳句が批評を失ってしまった。末尾で長谷川は次のように書いて本書を閉じる。

 虚子が去り、楸邨が去り、龍太が去り、大岡信も去ってしまった。この本の最初にふたたび立ち返れば俳句の俳とは批評のことだった。批評を喪失した俳句は果たしてどこへゆこうとしているのだろうか。

 俳句の誕生という題名に引かれて読み始めたが、実に重い内容だった。同時に極めて興味深いものだった。現在の俳句の世界の問題が少しわかったような気がする。



俳句の誕生 (単行本)

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