半藤一利『其角と楽しむ江戸俳句』を読んで

 半藤一利『其角と楽しむ江戸俳句』(平凡社ライブラリー)を読む。宝井其角芭蕉の高弟、蕉門10哲の筆頭の俳人だという。其角の俳句を取り上げてそれを解釈してくれる。ところが其角の俳句は難しい。半藤が解釈してくれるのだが、それでも難解だ。具体的に一部を引いてみる。

・日本の風呂吹といへ比叡山


 とにかく何のことやらさっぱりの句である。目を白黒させて何度も何度も読み返してみるが見当もつかぬ。仕様がないからと、冬場の食べものである風呂吹大根のほうに関心を寄せることにする。太い大根を厚く輪切りにして柔らかくゆでたのを、柚子味噌や胡麻味噌をつけて食べる。これがすこぶる美味い。なぜ風呂吹というか。その昔の浮世風呂なんかでは、湯から上がってきて湯気のたつ客の身体に、湯女が息を吹きかけながら垢を落としたそうな。これをそもそも風呂吹といった。熱い大根をフーフー吹きながら食べる様子がさも似たり、命名はそこからとか。
 では、大根の名はどこから? これが、なんと、『日本書紀』なんである。この西暦720年に成立の古典に登場して「於朋泥」と記され、オオネと読まれている。後にこれに大根の字があてられ、やがてごく自然にダイコンと音読されるようになったそうな。
 と書いているうちに、フウーと、『日本書紀』からいとも奇妙な連想が湧いた。句の比叡山とは、こりゃ、天台宗の総本山の延暦寺のことだよ、と思い当たった。この寺院は昔は天台根本三千坊を豪語していた。この「台根」すなわちダイコンで、また大根の千切り三千本と、其角は大いにシャレてつくったな、と判定した。当たっているかどうか、保証できぬ。それにしても、意地悪く、下手に洒落た句であることよ。

 これは普通まず分からないだろう。

・夏虫の碁にこがれたる命かな


 前書に「うつせみの絵に」とある。この前書がなければ、およそ珍紛漢紛で、とてものこと手に負えない。火に焦がれる夏の虫はあっても、碁に焦がれるなんて何事ならんや、皆目見当もつかない。ところが前書に引かれて、ここで『源氏物語』の「空蝉」の巻を想起すれば、話は別である。
 夏のとある夕方、人妻の空蝉と軒端の荻のふたりがゴソゴソ何かやっている。暑いのに格子戸をしめているので、何をやっているのか、と問うと、「昼より、西の御方(軒端の荻)の(空蝉のところへ)わたらせ給いて、碁打たせ給ふ」との答え。で、17歳の光源氏がそれを隙見する。実は空蝉は光源氏が最初に関係を持った女性であった。まわりが「イケメンの光源氏さんがいらした。やっぱりすばらしい」と大騒ぎするのに、当の空蝉は「ふーん」といった調子で碁に熱中している。それをまた源氏が聞いて、いっそうファイトをそそられる。……この辺の呼吸の巧みさ、むかし大いに感服した覚えがある。そこでその夜、てっきり空蝉と思い込み、忍び込んだ光源氏は軒端の荻と一夜の契りを結んでしまう……。運命の悪戯というのか。
 其角が蝉の絵に一句と頼まれ、即座に『源氏物語』を想起するなんて、とにかく驚きである。そしてよくある「夏虫の火にこがれたる命かな」といった句の、たった一字を変えて独自の句に仕立てる。まことに天才なるかな。

 いや、難しい。