矢島渚男『俳句の明日へII』を読む

 矢島渚男『俳句の明日へII』(紅書房)を読む。副題が「芭蕉・蕪村・子規をつなぐ」とあり、「芭蕉と蕪村」、「子規と虚子」、書評・時評、「現代俳句の群像」などからなっている。すばらしい本で教えられることばかり、ただただ圧倒された。同時に批評はしばしば辛辣で、はばからず言い切っている。
 現在のように俳句が盛んになってくると様々な権勢家が参入してきて、そういう人たちはこの形式(俳句)によっても権勢を誇示しようとするものだと書き、

わかりやすい一例をあげますと、かの名勝那智の滝をのぞむ青岸渡寺に行ってみますと、境内のいちばんいい場所にかつて政界の黒幕的存在を知られていた人物の巨大な句碑が建っていますし、一流の観光地である鳥取砂丘の入り口には政治家某のこれもまことに堂々たる句碑が建っています。ともにたいへん下手な句が品のない字で書かれていて風景を汚しています。

 と容赦ない。蕪村は若い時、芭蕉をしたって奥の細道へ旅立つ。奥州への旅では一句だけ残している。


 柳 散 清 水 涸 石 処 々


 最近ではこれを「柳散り清水涸れ石トコロドコロ」と読まれているという。そして、

 この時彼はしばらく東北地方を旅してまわるのですが、句集に残したのはこの一句だけなんです。おそらく句はたくさん作ったに違いありません。けれどみんな捨ててしまうんです。この旅で蕪村は自分のいまの句作力ではこの景色を前にして、とても芭蕉に太刀打ちできないと痛切に思ったのではないでしょうか。それはとても惨めな気持ちですね。かろうじてこの一句だけが残せると思ったのでしょう。これはたいへんなことです。自分に厳しいというか、この決意、姿勢が凄いと思います。現代の俳人に決定的に欠けているのはこれなのです。現代俳人の多くの人は印刷文化に甘え、ジャーナリズムに振り回されてつまらない句を量産していますが、そうした人たちはおそらく一句も残らないでしょうね。

 正岡子規について「子規の一句」という短いエッセイがある。

  糸 瓜 咲 い て 痰 の つ ま り し 仏 か な     子規
 子規の句に驚いたことがない、ということは世代ということであろうか。句に心を染めてから子規を読もうと思ったことがない。いつぞや虚子選子規句集に斜めに目を通し20句に1句ほどの割合でチェックしたが、おおかたの叙景句に退屈のほかなく、かえって挨拶句や人事で子規という傑出した明治人の気骨にふれる思いのみ鮮やかであった。
 「芭蕉忌や我に派もなく伝もなし」(明治32年)と詠った人がすぐれて伝習的であり後世に尾を曳く流派の祖であることなども皮肉な思いであった。
 作品としてみれば弟子の虚子に遠く及ばないし、大正期の飯田蛇笏・前田普羅・原石鼎らにも及ばない。36年の生涯に2万句というのは江戸末の一茶をも上まわる製作率となろうし、そうした無節操な多作ぶりがいくつかの劃然たる秀作をも引下げてしまう結果ともなる。結局改革者子規は明治の優れた教育家の一人であったことのみは確かなのであろう。(中略)
 教育家子規は写生を標榜したが作家子規は極めて多面的であった。古俳諧のあくなき蒐集と検討とは彼のうちに意図せざる残滓を残しているのである。そして生活の終りに吐き捨てたこの最高傑作のうちにゆたかな結晶を見せている。
 「仏」とは死者であろうか。それとも病苦を超脱した生ける我であろうか。私は前者とみる。(中略)子規は血痰で窒息死した自分の屍を見ているのだ。壮絶な写生というほかはないが、凡庸な写生主義をはるかに超えた自在な方法の勝利でもあろうし、むしろ方法を超えた天啓といえるだろう。そこには慈光のように俳諧の神が微笑んでいる。それにしてもいのちの終り際にしか姿を現さなかったこの神はなんというむごさなのであろうか。

 「現代俳句の群像」という章では、子規から始めて35人ほどの俳人が取り上げられ、切れ味の良い寸評が示されている。まるで俳人Wikipediaみたいだ。そこから高野素十に関する記述の末尾を引く。

 素十は剛直・豪快・男性的な句柄そのままの人柄、同時に情に篤い人情家でもあったようで、虚子の娘の一人との恋愛譚なども知る人ぞ知る秘密として語り伝えられている。客観写生句の通例にもれず、素十の俳句の8、9割は――「厳密な写生句」として名高い〈甘草の芽のとびとびのひとならび〉などもその中に含めて――つまらない。しかし残りの1、2割の中に断然たる名句の含まれている点で、昭和虚子門の最右翼だろう。

 また俳句大会などに対しても手厳しい。

 今日も俳句大会はきわめて盛んであるが、大会から名句が生まれたという話はついぞ聞かない。選者に人を得ず、心ある作者は投句しないのであるし、船頭多くして船山へ登るのたとえの通り、多数の選者の合計点で決められる入選句は盗作・類想の瓦礫の山をつくるばかり。主催者は投句料収入や宣伝効果を狙い、投句者は賞金や商品を狙う、そんな魂胆の卑しいところ、古来秀句の生まれる気遣いはないのである。

 群像の最後は阿波野青畝を取り上げている。90歳の青畝の句として、次の句を取り上げている。


 初 湯 殿 卒 寿 の ふ ぐ り 伸 ば し け り

 さすが、「わ が魔 羅 も 美 男 葛 も 黒 ず み し」」と詠んだ渚男先生だ。


 ※子規の句の「糸瓜咲いて〜」の糸瓜の「糸」は糸二つの漢字


俳句の明日へ〈2〉芭蕉・蕪村・子規をつなぐ

俳句の明日へ〈2〉芭蕉・蕪村・子規をつなぐ