グレアム・グリーン『国境の向こう側』(ハヤカワepi文庫)を読む。日本オリジナルの短篇集。比較的初期の作品を収めたためかあまりおもしろくない。詩人のT. S. エリオットが探偵小説の可能性について繰り返し論じていた影響で書かれた推理小説っぽい短篇も、さほど成功しているとは思えないし、スパイ小説のパロディみたいなのもあまり評価できない。最後のローマ教皇を描いた未来小説みたいなのはそこそこ面白かった。まあ、グリーンだから一定の水準は確保しているが。
「森で見つけたもの」はSF小説仕立てになっている。10歳未満の小さな子どもたちが登場人物だ。海沿いの小さな村に住む子どもたち4人が黒いちごを摘みに、ふだん行ってはいけないと言われている自分たちの村の境界の外へ行って、巨大な廃船らしきものを見つける。そこに巨人の骸骨が残っていた。骸骨は6フィート近く(180cm)あって、村で一番高い男より30cmは高かった。骸骨はまっすぐできれいな脚をしていた。それに比べて自分たちは短い不揃いの手足をしてがに股で蟹のように歩く。しかも骸骨は歯が全部そろっているのだ。「こんなきれいな歯をした人、ボトム(村)にいる?」と一番小さな少女が泣きじゃくる。
初めて見た巨人の骸骨がまっすぐできれいな脚をして背が高く、歯が全部揃っていることを全面的に肯定している。
これを読んで梶村啓二『野いばら』を思い出した。幕末に横浜に駐在した英国海軍情報士官ウィリアム・エヴァンズが、日本語を学ぼうと美しい娘由紀を紹介される。エヴァンズの弾くバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータを初めて聴いて、由紀はその音楽に引き込まれる。初めて聴く西洋音楽にうっとりする。
この二つのエピソードは嘘だと思った。それはハムザ・エルディーンの自伝『ナイルの流れのように』(ちくまプリマーブックス)を読んだ経験から言えることだ。ハムザ・エルディーンはスーダン出身で、アラブ伝統楽器ウードの演奏者だ。彼が初めてヨーロッパのオーケストラを聴いたときのことを書いている。
学校の中で開かれた音楽会で、西洋音楽を初めて聞いた。そのコンサートの会場では、音楽家たちはステージの上にいて、聞く人たちは客席にいた(エジプトやヌビアでは、たいらなところに音楽家がすわり、聞く人たちがそのまわりを取りかこむ)。いちばんあとでステージに出てきた人は、しっぽがふたつついた黒い長いコートを着ていて、お客さんのほうに背中をむけて小さな棒をふりはじめた。お客さんに背中をむけるとは、なんてマナーの悪い人なんだろう。でもお客さんたちは急に静かになり、音楽家たちはそれぞれバラバラに楽器を鳴らし始めた。私は楽器の音をためしているのだろうと思っていた。しばらくすると私のまわりの人たちが拍手をした。そんなことが3回、くりかえされた。となりにすわっていた人に、「演奏はまだ始まらないんですか?」と聞いてみた。「もう3曲やりましたよ」。私は、「ヘタなじょうだんで、失礼しました」とあやまった。これが西洋音楽ってものなのだ。
「これが西洋音楽ってものなのだ」。異文化の音楽を初めて聴いて感動するとは思えない。またまっすぐで長い脚を見ても、それが初めての経験なら、誰も美しいとは思わないだろう。キリンのように長い首をした人間を見た人は何て思うだろう。「まっすぐできれいな首」なんて感心するだろうか。
バッハのヴァイオリン音楽に感動したと書いた梶村も、長身の骸骨を美しいと感じたと書いたグリーンも、欧米の価値が無条件に最高だと無自覚に信じてしまっている。それは偏見にしかすぎない。チンパンジーは自分のがに股を人と比べて恥じないだろうし、三味線の師匠もその音楽を自己否定することはないだろう。
話は変わるが、グリーンのこの短篇集のタイトルになった短篇にちょっとしたエピソードが書かれていた。
(……)コリーには自分の何がいけないのかわかっていた。服の裾が擦り切れていてもごまかせる。靴下はめったに見えない。シャツは上着で隠しておける。ところが、靴で正体がばれてしまう。だから娼婦は靴を見るのである。
靴を見るのは娼婦だけではない。一般に水商売の人間も靴を見て客を判断する。カツカツの金しかない場合、靴にお金をかけるのは最後になってしまうからだ。だから靴にお金をかけていたら、一応ゆとりのある人間だと判断される。そういうことなのだ、イギリスでも日本でも。

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