金井美恵子自選短篇集『砂の粒・孤独な場所で』を読む

 金井美恵子自選短篇集『砂の粒・孤独な場所で』(講談社文芸文庫)を読む。金井の短篇はストーリー性があまりない。句点の少ない長い構文で複雑で詳しい描写が続く。物語性が希薄だ。解説の磯崎憲一郎が書いている。
 磯崎は、「ここ二、三年というもの、自分が日々書いているのは実は小説ではなく、絵なのではないか? そんな疑念に取り憑かれて、振り払うのに酷く苦労している(後略)」と書いて、次のように続ける。

(……)しかし今回、金井美恵子自らが選んだ16の短篇を読んでみて、その経験とは小説を読んだのではなくむしろ自分は絵を見たのではないか? もっと正確にいえば絵が描かれる過程の、色彩の選択、輪郭線の取り方、一筆一筆の運動を見たのではないか? じっさいそう表現するのこそが相応しい読書があるのだということを、私は思い知らされた。

 私もほぼ同じことを感じながら読んでいた。印象派の画家モネに積み藁を描いた作品がある。太陽光線が積み藁の向こうから差していて、手前に大きな影が描かれている。印象派は影を黒く描くのではなく、影にも色彩を与えている。また、滑らかな色面を作ることなく筆触を生かした絵を作っていた。その筆触の美しさに着目して、筆触だけの抽象画が生まれた。
 金井美恵子の短篇は、筆触だけで描かれた抽象画を思わせる。筆触に相当するのがどこまでも細々と続く描写だろう。美女や遠大な風景や歴史的な事件の代わりに、筆触だけの絵画の抽象画が描かれたように、描写だけの作品が提示されている。
 ただ、「砂の粒」という8ページだけの短篇は、金井のそのような特徴を持ちながら、吉行淳之介のある短篇小説と共通のテーマ・世界を描いていておもしろかった。金井の短篇では、「私」が小さな子どもの頃、母親が入院しているときに父が私を連れて箱根の火口原湖へ旅行をした。すると芦ノ湖あたりか。旅先で私たちは女の人と一緒になる。父が彼女と別れ話をしたらしい。そんなことが、溢れかえるような描写を縫って読み取れる。吉行淳之介の「夏の休暇」と同じ状況だった。吉行の作品に出てくる子どもは父親と伊豆大島へ行き三原山に登る。そこで若い女と一緒になる。その後父親と伊豆の熱川に行って、ここでも先の女性と合流する。吉行の短篇を下敷きにしたような金井の作品は、ピカソがベラスケスの絵を描き直したような、ゴッホが広重の「亀戸梅屋敷」を描き直したような印象でおもしろかった。



子供の領分 (集英社文庫)

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