半藤一利『隅田川の向う側』を読む

 半藤一利隅田川の向う側』(ちくま文庫)を読む。先に読んだ半藤一利との対談で宮崎駿が、半藤の著作の中で一番愛読していると語っていたので。半藤は『文藝春秋』編集長のころ、毎年年賀状代わりに豆本を作り送っていたという。その昭和57年『隅田川の向う側』、昭和58年『わが雪国の春』、昭和59年『隅田川の上で』をまとめたものが本書だ。
 1930年に東京墨田区向島に生まれている。それでタイトルを「隅田川の向う側」としたが、母親から「隅田川の向こうではなくて川のこっちだよ」と言われたという。半藤も、この「隅田川の向う側」について巻末の注で説明している。

隅田川の向う側  東京の隅田川の東岸、深川・本所・向島のこと。「川向う」は差別語であるから今はいわない。が、私の子供の頃は間違いなく西岸の浅草っ子は私たちのことをそう呼んでいた。こっちも負けずに「川のあっちの人間が何をぬかすか」とやり合っていた。

 私の出身地は天龍川の東岸で龍東と呼ばれていたが、西岸に位置する飯田市の友人によると、昔は東岸をやはり川向こうと呼んでいたという。川を挟めばよその土地になるから、こっちが中華ならあっちは夷狄となるのだろう。
 半藤は子どもの頃餓鬼大将で、向島区吾嬬町あたりに住んでいたらしい。近所の小さな野原で子どもたちを集めて相撲をとっていたが、よく遊びにきていたちっちゃな子が王貞治だった。その頃の王の生家は"六丁目の交番"の前の小さな支那そば屋だと書かれている。すると半藤の生家も今私が住む墨田区のこの辺りだったんだ。
 半藤は保守派だと思っていたが、事実そうであるのだが、憲法9条戦争放棄について肯定的であることに驚いた。「わが雪国の春」に次のような記述がある。

 新憲法がぐさっとわが胸に刺さったのは、天皇が国民の象徴になったことよりも、主権在民とかのお念仏よりも、日本の国家が戦争する権利を捨てたことであった。それを情けなや、昨今は第9条は意味はあるが意義はない、などと爪はじきされかかっている。
 しかし、戦争放棄は、GHQの押しつけや、にわか民主主義者の早とちりなんかではない。歴史的事実がある。
「第1条、条約国は各その人民の名において国際紛争解決のため、戦争に訴うることを罪悪と認め、且つその相互の関係において国策の手段としての戦争を放棄することを厳粛に宣言す」
 これすなわち、1928年(昭和3)年に米・日・英・仏・独・伊をふくめて15カ国の代表によって調印された「不戦条約」の条約成文である。新憲法の条文とよく読みくらべてほしい。第9条には意味も意義もあるのである。日本だけの、かりそめではないのである。

 半藤は『ノモンハンの夏』『昭和史』『日本のいちばん長い日』『荷風さんの戦後』等々著書が五万とある達者な歴史家、エッセイストだ。しかし、本書はまだサラリーマンをしながらの年賀状代わりの豆本だった。習作みたいなものだろう。一体にかったるい印象は拭えない。ところが、それが大ラスで一変する。半藤は東大の学生時代ボート部の選手だった。隅田川でボートを漕ぐ日々だった。昭和26年、大学3年のとき、日本選手権に出場する。この年の優勝校はヘルシンキオリンピックに出場することになっていたので、普段より力が入っている。優勝候補は東大と慶応だった。その戦いが熱く熱く語られる。結果は慶応の優勝だった。漕ぎ戻るときコーチの姿が見えた。近づいて艇をとめると、コーチはいった。「どうした、よく漕げたか」/誰もが黙っていたが、やがて、トーガン(仲間のあだ名)が答えた。「慶応はよく、実によく頑張りました」/「そうか」とコーチはしばらくクルーを一人ひとり見つめたが、やがて「さあ、早く艇をあげろ。閉会式があるから」/その瞬間、実にその瞬間だった。クルーの多くは涙を流した。
 習作だろうと書いた。実に栴檀は双葉より芳しだ。