『脳はなにを見ているのか』を読んで

 藤田一郎『脳はなにを見ているのか』(角川ソフィア文庫)を読んだ。最初に開いた口絵の図に見覚えがあった。調べてみると2007年に読んでいた。その年、『「見る」とはどういうことか』(化学同人)として単行本として発行されたのだった。今回文庫化されてタイトルも変わったが、内容は変わっていないという。なお元の単行本も販売中とのこと。
 「見る」という機能を脳のニューロンと対応させて、どのニューロンが見ることのどの役割を担当しているのか、精密に分析していく。事故で脳に障害を負った人を実験台にして、どの部位に障害があるとどんな見え方になっていくのか、またサルを実験台にして判明した機能を確認していく。眼のレンズから入った光が網膜に像を結び、その像が脳に送られてものが見えるなんていう単純なものではなかった。
 はじめに実在しないものが見えることがあるという例を不思議な図を用いて確認していく。下の図は、北岡明佳が作成した「蛇の回転」という図。静止しているはずの図像が回転しているように見える錯視。

 この錯視は、しかし60、70歳代の人間には現れないという。私も全く動いて見えなかった。半信半疑で20歳代前半の若い画家に見せたところ、これ、ダメです、気持ち悪くなっちゃう、と言われた。
 図版そのものには回転している要素はない。それが錯視されることについて、

 目に映っているものは同心円なのに見えるものはらせん模様であったり、同じ印刷がなされているものがちがった色や明るさに見えたり、何も描かれていないものが見えたり、目の前にあるものが見えなかったりする。これらのことは、眼底に映った外界像を網膜の細胞がとらえて生体電気信号に変換した段階で、「見える」という知覚が生まれているのではないことを示している。網膜から電気信号が脳に送られ、脳の中で処理され、その結果生成された電気信号が私たちの知覚意識のもとになっている。見ることも、ほかの心のできごとと同様に脳によって担われている。

 さまざまな図版が駆使されて、見ることと脳の不思議な関係が解説される。
 側頭葉内側部の底面にある紡錘状回が壊れると相貌失認と呼ばれる症状が現れる。ものは見え、見ている物体が何であるかはわかるけど、人の顔を見て誰であるかの識別ができない。顔の識別に特化していると考えられているが、識別を得意としているものに特化していると考える研究者もいる。
 頭頂葉の視覚野が壊れると、見ているものを操作することがうまくできない。コップにジュースが入っていることはわかるのに、手を伸ばしてコップをつかむことができない。
 これらのことから、「見たものが何であるかがわかる」という過程と、「見たものに対して働きかける」という過程は別であり、脳の別の場所で担われているという。そして知覚意識と行動の乖離が起きているという。

 脳が世界を見ているのであれば、脳に損傷が起これば、ものが見えなくなるなどの影響が起こるはずだという予想で、大脳皮質視覚野における損傷例をいくつか見てみた。壊れた脳の場所によって現れてくる症状はさまざまであり、単に「何も見えなくなる」というものではなかった。これらの症例の存在は、脳がその場所によって異なった機能を果たしていることを示している。(中略)
 この章では、見ることにおいて、「ものが見えるという主観体験が生じる」ことと、「見ることに依存して行動を起こす」ことが独立に起こりうることを知ったことが重要である。これは、私たちの常識的感覚からは信じがたい話である。私たちは、ものを見て何であるかを意識的に感じ、それにもとづいて、視覚対象に働きかけていると思っているが、脳の一部が損傷したり、または健常者でも特定の条件下では、見えることと見たものに働きかけることは別々に起きうることなのである。

 ニューロンの研究はずいぶん進んでいるようだ。著者は「このようにして、主観的意識にかかわるニューロンとそうでないニューロンの区別が徐々に進んでいけば、いつの日か、主観的意識にかかわるニューロンにはどのような共通特徴があるのか、意識に直接貢献しないニューロンとは何がちがうのかがわかる日がくるかもしれない」と書いている。
 脳科学は難しくて、本当のところよくは分からなかった。それでも分からないなりに楽しめたのだった。