内臓に意識はあるか

 福岡伸一『世界は分けても分からない』(講談社現代新書)に、「未だ実証されない思考実験にすぎないのだけれども」と言いながら、「どこかから密かに見つめられているとき、私たちはその気配をすばやく感受できる」ということについて考えている。カメラのフラッシュを浴びたとき、赤眼になることがある」と言い、それは眼底の血管網が赤く反射していて、それがフィルムに写るのだ。それは人間も視線の方向に光を放っているということで、フラッシュのように強い光でなくても、眼は外界の光を捉えて弱いながらも光を常に反射していると考えられるという。そのような反射光に対して、私たちは感受性が高いのではないかと言い、そうであるなら、それこそが”視線”ということになる、と述べている。さらに、

 誰かが私をそっと盗み見している。その誰かの眼には外からの光が入り、その光は彼女(としておこう)の眼底で反射され、彼女の視線の方向、つまり私のほうへまっすぐ投げかけられる。この時点ではまだ私は彼女の存在に気づいていない。しかし私の眼のふちには微弱な光が届いている。

 福岡は田中一『夜空の星はなぜ見える』を引いて、星からの光エネルギーは微弱で、理論的には夜空の1点を凝視して少なくとも30秒以上、「集光」しないと見えないという。しかし、それが瞬時に見えるのは、光を波動=波として捉えるのではなく、粒子として考えれば、ほんの何粒かだけが眼の中に入り網膜をヒットする。網膜細胞はほんのわずかな光粒子のヒットを受けるだけでそれを感じることができる。だから夜空の星を見ることができるのだと。

 彼女の眼は外界からのさまざまな光を捉えながら、眼底はその中からある種の光を選んで反射している。(中略)彼女の視線は私におそらく赤い光の粒子を投げかける。彼女の視線に気がつかない私の眼にごくわずかな光の粒子が入ってくる。(中略)私はおもむろに顔を上げて光の方向を見る。彼女の視線はまっすぐにこちらを貫いている。

 わずかな光の粒子が網膜を刺激するから、誰かの視線に気づくことができる。これはかなり大胆な仮説、ほとんど荒唐無稽に近いほどの仮説ではないだろうか。実はここまでが話の「枕」なのだった。福岡がここまで大胆な仮説を発表しているのなら、私もそれに倣って「思考実験」を述べてみたい。
 先日ノンアルコールビールを飲んだとき、顔がほてっているような気がした。鏡を見ると、事実多少上気していた。ノンアルコールでありながら酔ったみたいなのだ。なぜだろうと考えた。ノンアルコールではあるが、味覚としてはビールに似ている。胃腸などの内臓がアルコールが入ってきたと認識したのではないだろうか。私の「自意識」はノンアルコールだと知っている。しかし内臓は私の自意識とは別の認識を示したのかもしれない。認識といえば意識があることになる。それは私の知らないことだ。こう考えたらどうだろうか。内臓も意識を持っている。だがその意識は「私の意識」とは別のもので、両者には連絡がないと。私の知らない内臓やら肉体の意識が存在するのだと。
 左脳と右脳を結ぶ脳幹が切断された患者は、自分が認識していないものを掴むことができる。左脳が認識し、しかし右脳が認識しなかったときでも、意識しないで掴んでいる。そのように意識があっても、その意識を自分では認識できないことがある。認識できない意識が脳の中にある。とすれば、認識できない意識が内臓にあることがありうるのではないだろうか。
 胃腸は何かが消化器官に入っていったとき、それが食物か否かを分別する。食物の種類によって消化し吸収する。その機能を認識と捕らえても良いのではないか。それを意識と呼んでも良いのではないか。
 ノンアルコールビールで顔がほてって上気したことから、内臓にも認識機能がある、それは意識と呼びうるのではないかと、福岡伸一の大胆な仮説に倣ってちょっとした風呂敷を広げてみたのだった。



世界は分けてもわからない (講談社現代新書)

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)