由良君美『みみずく偏書記』を読む

 由良君美『みみずく偏書記』(ちくま文庫)を読む。由良は東京大学名誉教授、英文学者。博覧強記で眩いような広く深い知識を持っている。本書は50篇近いエッセイを集めている。袖のプロフィールによると、

専門は、コールリッジを中心とした英国ロマン派文学であるが、言語学比較文学はもとより、オカルト、サブカルチャーとその守備範囲は広い。

 そして辛辣な皮肉屋でもある。ペダンティックでもあるが、学識の裏付けが十分であるので、誰も由良を揶揄できないだろう。だから陰で辟易することになる。私のように。
 四方田犬彦に『先生とわたし』(新潮社)という本がある。この先生こそ由良君美なのだ。四方田は由良の「背後に横たわっている知識と膨大な読書量、さらにどこか斜に構えたかのようなものいいに、すっかり魅惑されてしまった」。四方田は由良のお気に入りの弟子となる。
 四方田によって紹介される由良の辛辣な批評は次のようなものだ。

法皇某は『無常といふこと』の八方破れのあと、文字どおり鍔を文学と観ずる恍惚に走り、それを論じて文壇に月評子となりし某は、憐れや今世紀の弁疏も身につかぬままに、百数拾年の昔に生前はや遷化されし、〈……とその時代〉なるヴィクトリア朝的風習に安住したもう。『言語にとって云々』とやらの長文の垂れながしに、一握の書生を糾合されし牛飯屋主人某は、近代言語学に一切通ぜず、フォルクス・エティモロギーに浮き身をやつし、某々の憫笑を買いしと言う」
 斉藤緑雨を気取った、ひどく屈折した文体が指し示しているのは、小林秀雄江藤淳吉本隆明のことである。由良君美はこの3人を、方法論を欠いた印象批評の輩として嫌っていた。だがその逆に、横光利一には生涯にわたって敬意を抱き、彼の手法の変遷を分析的に辿る論考を数点発表している。埴谷雄高鮎川信夫には好感を抱き、とりわけ後者の『戦中日記』に共感を感じると語っていた。
 だが由良君美がもっとも長期にわたって不倶戴天の敵と見なし、その存在に対する嫌悪を隠そうとしなかったのは、同じ英文学を専門とする都立大学(現在の首都大学東京)の篠田一士だった。篠田について由良君美が最初に言及したのはきわめて早く、まだ慶應義塾助教授だった1964年、篠田の『現代イギリス文学』の書評である。どうやらこの時期から由良君美は、自分とほぼ同年齢でありながらいち早く著書を江湖に問い、華々しく活躍している篠田を、目の上の瘤のように眺めていたらしい。

 由良は多く斜に構えた批評家の印象がある。否定の批評家といおうか。それで読んでいて楽しくない。いや博覧強記の深い知識の持ち主だから、教えられることも多かった。ここで紹介されている寿岳文章の『書物の世界』『図説 本の歴史』などはぜひ読んでみたい。
 本書を読んで由良については十分堪能した。最近平凡社ライブラリーから再刊された由良君美の『椿説泰西浪曼派文学談義』も購入するつもりだったが、もうその気はなくなってしまった。


「先生とわたし」を読む(2011年9月2日)
由良君美の過激な批判(2011年9月3日)



みみずく偏書記 (ちくま文庫)

みみずく偏書記 (ちくま文庫)

先生とわたし (新潮文庫)

先生とわたし (新潮文庫)