映画『裏切りのサーカス』と『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』

 映画『裏切りのサーカス』を見た。監督がトーマス・アルフレッドソン、主演がゲイリー・オールドマンだ。映画館のホームページにリピーターが多いと書かれていた。また、ちらしにこんなことが書かれている。

※本作に限り、ストーリー、人物相関図などを、ある程度把握してからご覧頂くことをお勧めします。

 標題のサーカスとは英国諜報部のこと。リピーターが多く、あらかじめストーリーを把握しておくことを勧めるなど、要するに分かりにくいということだ。そのストーリーについて、ちらしにはこう書かれている。

敵は味方の中にいる。英国諜報部〈サーカス〉幹部に潜む、ソ連の二重スパイ〈もぐら〉を捜せ。
東西冷戦下、英国MI6とソ連KGBは熾烈な情報戦を繰り広げていた。そんな中、引退した老スパイ・スマイリー(ゲイリー・オールドマン)の元に、暗黒の領域に踏み入る指令が下る。標的は、元同僚の組織幹部4人、コードネーム〈ティンカー(鋳掛け屋)、テイラー(仕立屋)、ソルジャー(兵隊)、プアマン(貧乏人)〉。
過去の記憶を遡り、旧友たちの証言を集め、着実に容疑者を洗いあげていくスマイリー。やがて浮かび上がる、幹部たちがソ連の新しい情報源と手を組んだという極秘作戦〈ウィッチクラフト〉。そしてその鍵を握る、ソ連の大物スパイ・カーラの影。〈ウィッチクラフト〉の先にある、カーラの真の目的とは−−。
米国をも巻き込む巨大な陰謀に辿りついたスマイリーは、最後の賭けに打って出る。

 映画はよくできている。私はとても楽しんだ。なぜなら、この映画の原作はイギリスのミステリ作家ジョン・ル・カレの『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』(ハヤカワ文庫)であり、私は32年ほど前と4年前の2回これを読んでいるからだ。原作は文庫本で550ページもあり、決して単純な話ではない。興味深いエピソードもふんだんに散りばめられている。2時間の映画に作り直すのは至難だったろう。リピーターが多いのも、ストーリーや人物相関図を知れと言いたくなるのもよく分かる。
 私は映画を見たあと、原作をもう一度読んでみた。最近、ハヤカワ文庫で村上博基の新訳版が出たのだ。何度読んでも堪能した。スマイリーはもぐらを特定するため、MI6のもう引退した昔の同僚を訪ね歩き、また古いファイルを調べ抜く。この小説は地味な調査の積み重ねでもぐらに迫っていくものなのだ。ところがそれが面白い。どんな登場人物もル・カレによって深い人物造形がなされているからだ。
 『ティンカー、テイラー……』はスパイ小説、ミステリ小説として一流であり、同時に優れた人物造形によって一流の文学たりえているのだ。スマイリーが活躍するスパイ小説として、このあと『スクールボーイ閣下』『スマイリーと仲間たち』が続いていく。俗にスマイリー3部作と呼ばれている傑作集だ。原作を読んだ後で映画を見れば、映画で省かれた部分も補って十分に楽しめるだろう。
 文庫版の解説で池上冬樹が書いている。

 2005年、英国推理作家協会(CWA)は、創立50年を超えたことを記念して、歴代の受賞作のなかから、もっとも優れた受賞作を選出した。名付けて、「ダガー・オブ・ダガーズ賞」。過去に最優秀長篇賞(ゴールド・ダガー賞)を受賞した作品のなかから選り抜きの7作、すなわちジョン・ル・カレの『寒い国から帰ってきたスパイ』(1963年)、アントニイ・ブライスの『隠された栄光』(1974年)、マーティン・クルーズ・スミスの『ゴーリキー・パーク』(1981年)、ピーター・ラヴゼイの『偽のデュー警部』(1982年)、バーバラ・ヴァインの『運命の倒置法』(1987年)、レジナルド・ヒルの『骨と沈黙』(1990年)、ヴァル・マクダーミドの『殺しの儀式』(1995年)を候補作とし、協会会員たちが投票した。その結果、ジョン・ル・カレの『寒い国から帰ってきたスパイ』がダガー・オブ・ダガーズ賞に選ばれたのである。
(中略)
 だがしかし、ジョン・ル・カレの業績のなかで作品を見たときに、もっとも重要な作品は何かときかれたら、おそらく多くの批評家もファンも、『寒い国から帰ってきたスパイ』よりも本書『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』をあげるのではないか。本書ではじまり、『スクールボーイ閣下』『スマイリーと仲間たち』と続くジョージ・スマイリー3部作こそ、ジョン・ル・カレの代表作である。

 池上の意見にもう一つ、ル・カレの『パーフェクト・スパイ』を付け加えれば、もう何も言うことはない。


ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫NV)

ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫NV)