ジョン・ル・カレ『地下道の鳩』を読む

 ジョン・ル・カレ『地下道の鳩』(早川書房)を読む。副題が「ジョン・ル・カレ回想録」で、『寒い国から帰ったスパイ』や『ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ』、『パーフェクト・スパイ』などで著名なイギリスのスパイ小説作家の回想録だ。楽しみで読み始めた。全38章、1ページ平均9ページほどになる。実際は長い章で40ページ、短いもの「小説家を志す人へのアドバイス」がわずか1ページ、正確にはたった2行だ。それは、「1日の執筆を終えるときには、翌日に向けて何かをためこんでおくことにしている。睡眠はじつにすばらしい仕事をしてくれる」。というもの。最後に「出典」という項がある。これによると、本文中8つの章は引用元からそのまま転載したり一部を抜粋したという。
 ル・カレの読者なら個々の作品の取材背景や、発想のエピソードが語られているので十分楽しめるだろう。ただ全体が体系的に書かれているのではなく、断片的で、そのような意味では多少物足りなく思ったのも事実だった。
 やはり圧巻は詐欺師でもあった父親ロニーのことを語った「著者の父の息子」の章だろう。父親は『パーフェクト・スパイ』のモデルにもなっている。ロニーはル・カレの学費を支払うに当たっても、ある学校は、闇市の売れ残りのドライフルーツ――イチジク、バナナ、プルーン――と、職員向けに入手困難なジンをひと箱受け取っただけだった。破産したり、刑務所に入ったりすることもある。
 作家のジャン=ポール・カウフマンとの交流が感動的だ。カウフマンはベイルートヒズボライスラム主義の武装政治組織)の人質となり3年間囚われていた。監禁されていた隠れ家でル・カレのペーパーバックを見つけ何度も貪り読んだ。ル・カレのメールに対してカウフマンから返事が届いた。

 人質となっているあいだ、私は本に飢えていました。ときどき看守が持ってくるのですが、本が届くとなんともいえず幸せな気持ちになりました。1度、2度、40度と読むだけでなく、結末から読んだり、まんなかから読んだり、このゲームで少なくとも2カ月は手持ち無沙汰にならないと思いました。『寒い国から帰ってきたスパイ』はそのひとつです。(中略)
 あなたの人類に対する見方は悲観的です。われわれは哀れな生き物で、一人ひとりにたいした価値はない。ですが、幸いなことに、それが全員当てはまるわけでもない(登場人物のリズを見ればわかります)。
 あの本の中に、私は希望を持つ理由を見つけました。もっとも重要なのは、語り口と存在感です――あなたの。残酷で色のない世界について書き、絶望的な灰色でそれを描けたときの作家の無上の喜びは、肌で感じられるほどでした。誰かが話しかけている。もう孤独ではない。牢獄のなかで、私はもう見捨てられた人間ではありませんでした。ひとりの人間が、そのことばと世界のビジョンとともに私の独房に現われた。誰かが私に力を与えてくれた。これで私は耐えていける……。

 ル・カレは、昼食のときにカウフマンが話題にしたのは、『寒い国から帰ったスパイ』ではなく、『パーフェクト・スパイ』だったと言っている。『パーフェクト・スパイ』こそル・カレ最大の傑作だと思う。


地下道の鳩: ジョン・ル・カレ回想録

地下道の鳩: ジョン・ル・カレ回想録