連城三紀彦『夜よ鼠たちのために』を読んで

 連城三紀彦『夜よ鼠たちのために』(徳間文庫)を読む。連城が2013年に亡くなったとき、ミステリ作家の綾辻行人朝日新聞に追悼文を書いた(2013年10月29日夕刊)。

 美文で男女の機微を描く恋愛小説の書き手というイメージが一般に定着していますが、連城作品の核はやはりミステリーだと思います。「花葬」シリーズなど初期の作品に顕著ですが、どれもが超絶技巧を駆使した見事な逆転劇で、作品全体がだまし絵のようです。こんな作家は国内外、他にいないでしょう。
 リアルタイムで作品を読めたことが、僕のミステリー作家としての素地を作ってくれた。特に短編集『夜よ鼠たちのために』は収録作すべてが傑作で、ひとつの理想型。僕があまり短編を書かないのは、これを超えるような作品を書く自信がないからとも言えます。

 新聞にはその1年ほど前に撮られた連城のポートレートが載っていた。名前だけは知っていたが、読んだことはなかったし、顔を見るのも初めてだった。恋愛小説を書いているらしいことはおぼろに知っていて、華麗な名前からもっとチャラい男かと思っていた。それが私と同い年で、むしろ貧相な印象なのに驚いた。まだまだ私には顔を読み解く力がないのかもしれないと反省した。
 綾辻がそんなに褒めているので読んで見た。なるほど、綾辻の書くように「超絶技巧を駆使した見事な逆転劇で」私の推理は見事に裏切られ続ける。文字通り逆転に次ぐ逆転で、最後は思いがけないところへ連れていかれてしまう。ひとひねりどころか三ひねり四ひねりもされている複雑なプロットだ。そのことは全く見事だという他ない。
 さて、しかし読みながら少々白けてしまったのも事実だ。逆転に次ぐ逆転を狙い過ぎている。ある意味ミステリのマニエリスムだ。マニエリスムルネッサンス美術の後に現われた美術形式で、ルネッサンスの細部をさらに追及したもの。マンネリズムに近い概念だが、多少は異なっていて、それなりに存在価値がある。とはいえ、ルネッサンス以上の価値を実現することはできなかった。
 連城のミステリも技巧の粋を追求しているが、技巧にばかり走ってしまっているきらいが見える。
 だから一番評価できるのが、複雑さがもっとも少ない「ベイ・シティに死す」だった。しかし、こう書いたとき、お前、という声がする。そんなことを言ったらミステリの定義そのものを否定することになるじゃないか。ミステリは読者の推測をいかに裏切って華麗なプロットを提示することではないのか、と。
 そうかもしれない。それがミステリの王道だったら、しょせん私にはミステリは分からないのだろう。私にとってベスト・ミステリ作家は、ミステリの一分野であるスパイ小説のジョン・ル・カレなのだ。ル・カレはプロットの複雑さよりも、登場人物の内面の複雑さを書いていた。ル・カレの『ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ』や『スクールボーイ閣下』、『スマイリーと仲間たち』、『パーフェクト・スパイ』を読めば、ル・カレが単なるミステリ作家ではなく、ドストエフスキーに比肩しうる作家であることが分かるのではないか。彼にこそノーベル賞を授賞すべきだろう。それに最もふさわしかったスタニスワフ・レムというきわめて優れた天才的なSF作家が亡くなった今は。



夜よ鼠たちのために (宝島社文庫)

夜よ鼠たちのために (宝島社文庫)