山崎省三の「回想の芸術家たち」を読む

 山崎省三「回想の芸術家たち」(冬花社)を読む。山崎は1930年生まれ、新潮社に入社し、長く「芸術新潮」の編集長を務めた。文章がうまい。本書で取り上げられた芸術家たちは、林芙美子、石井鶴三、厳本真理、岡本太郎瀧口修造土方定一、利根山光人の7人、いずれも錚々たる人物だ。私は彼らのうち、瀧口修造土方定一について知りたくて読んだのだった。
 文章はうまい、登場人物は一流、なのにあまり面白くない。なぜか? 著者の視点が平凡だからだ。あるいは、編集者として付き合った人たちだから、礼にもとることは書けなかったのか。林芙美子が亡くなって1ヵ月ほど後のメモに山崎はこう書いているという。

 無常観にさいなまれながら、駄作は許されない流行作家としての命運。一作一作が賭である、そうした世間とのつながり、暗黙の契約。林さんはその契約が過酷なことを知りながら履行したのだ……などとつづいて、最後に「良い人であった」と記している。
 今も、つくづくとそう思う。
 林芙美子の葬儀委員長川端康成は、「故人は、自分の文学的生命を保つため、他に対して、時にはひどいこともしたのではありますが」今は許して欲しい、というような挨拶をしたのだが、私はそうした事例を知らない。またたとえ、あったにしても、文壇ゴシップといった類いの話であって、林芙美子の自らの生への誠実さに比べれば論ずるに足るまい。文芸評論の中村光夫は、もともと彼女は「どんな悪条件のもとでも、まづ生きること、次に美しく生きることを希ふ詩人でした」と書いているが、そうに違いない。

 さて、その川端康成の弔辞を見てみよう。嵐山光三郎「追悼の達人」(慎重文庫)から

 林芙美子が死んだとき、葬儀委員長の川端康成はつぎのように挨拶した。
「故人は自分の文学的生命を保つため、他に対して、時にはひどいこともしたのでありますが、しかし、あと二、三時間もすれば、故人は灰になってしまいます。死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか故人を許して貰いたいと思います」
(中略)
貧困過酷な前半生から奇跡的に成りあがったため、流行作家になってからは競争相手の進出に神経質になり、若い女性作家に対する妨害がめだった。川端康成が故人に代って、これほどまでに弁解したのはそのためである。
 死後六年目に出た「文藝」臨時増刊号の「芙美子をどう評価するか」というアンケートでは、かなりの人が冷淡な回答を出している。「林芙美子からは別に学んだものはありません」(生沢朗)、「作者としての心得きった媚態が不潔で、ほとんど読まなくなりました」(小田切秀雄)、「別段学んだものはないようです」(川崎長太郎)、「何ら学ぶところがありません」(江口渙)、「個人的には随分いやな評判、話のあった人ですが、なお書く血路をひらいたということです」(大井広介)、「叙情的な小説をつくるのはつまらんということ」(杉浦明平)、「作家と思っていない」(秋田雨雀)、「好きな作品というものはありません」(白井浩司)、「林芙美子の小説は小生に興味なし」(正宗白鳥)、「貧乏や放浪を売りものにしているようでいや」(小野十三郎)、「学んだものはありません」(松本清張)とある。

 そして、嵐山は平林たい子の言葉を紹介する。

 平林は、22歳の芙美子と一緒に下宿した仲であり、芙美子の性情は知りつくしており、わずかに芙美子を理解した女友達だった。平林たい子は、「お葬式に川端さんが、生前の一切の怨念は消えてなくなるのだと言われた言葉は本当によかった」と、友のために感謝し、「死後まで宥されない程の深刻なアクは残らない。そういう小悪徳をも含めてのであったことが、庶民の女としての林さんだったのだ」と友の生涯を弁解している。

 ここまでくれば、残念ながら山崎省三に人を見る視点が欠けていると言わずばなるまい。
 肝腎の瀧口修造土方定一の項はそれなりに面白かった。

回想の芸術家たち : 「芸術新潮」と歩んだ四十年から

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追悼の達人 (新潮文庫)

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