山崎省三『回想の芸術家たち』(冬花社)を読む。副題が「『芸術新潮』と歩んだ40年から」。山崎は1948年に新潮社に入社し、1950年『芸術新潮』創刊とともに編集部に勤務し、のちに編集長を務める。5つの章からなっていて、「林芙美子の〈絵〉と『芸術新潮』」、「石井鶴三と巌本真理」、「岡本太郎のパリと諏訪」、「瀧口修造と神楽坂と〈前衛〉風景」、「反骨・差配の大人・土方定一」、「利根山光人とメキシコとお柳さんの話」であるが、瀧口修造と土方定一と利根山光人が特におもしろかった。
戦後すぐの頃、日米混血のバイオリニスト巌本真理は美人で人気絶頂だった。芸術新潮で4人の有名な画家が巌本を描くという企画を立てた。新潮社の応接室に座る巌本を取り囲んで、石井鶴三、猪熊弦一郎、東郷青児、宮本三郎が鉛筆、コンテ、ペン、水彩で2時間ほどで描きあげたという。ずいぶんつまらぬ企画だと思う。
岡本太郎の項では諏訪の御柱を見に行ったことが詳しく語られている。また多摩墓地にあるという太郎デザインの岡本一家の墓の写真が載っている。太郎と父・一平の墓の写真があるが、横には母・かの子の墓もあるらしい。一度見に行ってみたい。
瀧口修造の項で、第12回読売アンデパンダン展について次のように書いたという。
……幾多の離散集合と転変のあとに残るものはなにか。それはよくもあしくも個の芸術家の刻印、歴史のはげしいあらしに削りとられたあとの個の刻印でしかない。そして芸術ほど朽ちやすく、消えやすいものもないのだ。しかも凡百の芸術は残る! うず高く残る!
土方定一は強面の人だったと語られる。作品の選定の会場で声を荒げたり、美術館で展覧会の出品作を出版社が撮影するのに立ち会っていた館員が土方に怒鳴りつけられたりといったエピソードを紹介している。窪島誠一郎も酒井忠康との対談で土方を怖かったと言っていた。針生一郎は全国の公立美術館の館長人事は実質的に土方が決めていたと話していた。
利根山光人の章はとくに面白い。利根山は中南米の古代美術に入れ込んで、マヤの遺跡のレリーフを拓本に取り、結果メキシコ政府から最高の勲章を贈られる。
なかなか面白く読んだが、山崎が芸術新潮の編集者〜編集長だったことで、作家たちへの一抹の遠慮がある。ヨイショ記事とは言わないが、やはり手加減している印象だ。もう少し批判的であってもよいのではないか。
本書が新潮社ではなく冬花社から出版されていることの意味は何だろう。
- 作者: 山崎省三
- 出版社/メーカー: 冬花社
- 発売日: 2005/05/01
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- 購入: 1人 クリック: 5回
- この商品を含むブログ (6件) を見る