イギリスの作家ジョン・ル・カレ「ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ」(ハヤカワ文庫)を読み直し、30年前同様圧倒される。ル・カレはスパイ小説専門の作家だ。本書はイギリス情報部の中枢に潜むソ連のスパイを捜し出す話。文庫本で500ページ以上あり、一度は引退させられたスマイリーが再び呼び戻され、謎の男をあぶり出していく。
派手なアクションはなく、地道に考察を進めていく。小さなたくさんのエピソードが積み重ねられ、ジリッジリッと核心に近づいていく。そのストーリーテラーの見事さ。小説の細部の豊かさ。
この作品の後再びスマイリーを主人公にした傑作「スクールボーイ閣下」と「スマイリーと仲間たち」が続き、さらに何作かが書かれた後、最高傑作の「パーフェクト・スパイ」が発表された。
スマイリーは次のように描写される。小柄で、肥り肉で、猫背で分厚い眼鏡をかけ、服装の趣味もいただけない。動作はぎこちなく、足取りはおぼつかなげで、見ればもう相当な歳だ。しかし彼の奥さんは美人で評判のレディ・アンだ。レディの称号を持っている魅力的な女性。だがアンはスマイリーを捨てて若い男とどこかへ旅行している。この時井上ひさしを連想した。井上も美人の奥さんに去られてしまった。そして私は似た境遇のもう一人の男を連想した。
「ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ」を読んだのは30年ぶりくらいか。私にとってル・カレはスパイ小説作家などではなくて、最高の作家の一人なのだ。
ソ連が崩壊したとき、書くものがなくなりましたねとのインタビューに答えて、カードの札が配り直されたようなものだと言った。だが実際には往年の傑作群は戻ってはこなかった。
本書で追求されるソ連のスパイは実際にモデルがいて、キム・フィルビーと言った。このル・カレのほかにも、キムをテーマにグレアム・グリーンが「ヒューマン・ファクター」を、レン・デイトンが「イクスプレス・ファイル」を、マイケル・バー=ゾウハーが「真冬に来たスパイ」を書いているという。グレアム・グリーンは私も読んだし、この方を高く買っている人もいる。グリーンは好きな作家だが、やはりル・カレを推したい。