ねじめ正一「荒地の恋」を読んで、また猫山のこと

荒地の恋
 ねじめ正一荒地の恋」(文芸春秋)を読む。北村太郎は1976年53歳の時親友の田村隆一の4人目の奥さん明子と付き合い始める。その頃から北村が1992年10月に69歳で亡くなるまでの北村太郎に関する恋愛を中心にした伝記。
 北村太郎は戦後の現代詩をリードした荒地グループの同人で、ほかに田村隆一鮎川信夫加島祥造、中桐雅夫などがいた。北村は妻子と別れ明子と同棲を始める。田村にも若い恋人ができるが、まもなくその女性とも別れまた明子とよりを戻す。北村も田村に誘われて田村夫妻の家の近くに転居し、また離れた地へ引越すなど複雑な関係が続く。
 58歳のとき北村の詩のファンだという若い看護婦阿子と知り合い、翌年デートをして深い仲になる。再び田村が新しい女性と暮らすため明子を捨て、明子は北村を頼る。北村、多発性骨髄腫にかかり数年の命と宣告される。なおも阿子とデートをする。
 1988年田村と明子が正式に離婚し、北村も明子の家へ引っ越す。
 これまで北村に沿って記述されてきたが、最後に阿子に沿った記述に変わる。

 北村さんが死んだ。
 朝刊の死亡記事を見たとき、おかしなことに悲しみよりホッとした気分があった。ずっと前から、新聞がくると後ろから展げて死亡記事欄に北村太郎の名前を捜す習慣がついていたからだ。息をととのえ、驚くまい驚くまいと自分に言い聞かせてから新聞を開く。そんな日々が終わったのだ。記事は短かった。
北村太郎氏。詩人。本名松村文雄。10月26日、午後2時27分腎不全のため虎の門病院にて死去。享年69。10月28日、故人の遺志により親族・知己のみにて密葬」(中略)
 神楽坂の出版クラブというところで北村さんのお別れ会がある。(中略)みんなの挨拶が終わってお喋りの時間になった。私は(北村の双子の)弟さんが一人になるのを待ってそばに行き、「私、北村さんの恋人だったんです」と言った。弟さんは少し驚いたようだったが、「そうですか」と言うと私の顔を見た。やさしい目だった。北村さんよりやさしい目だった。「お名前は」と聞かれて、私は自分の名前を言った。(中略)
「これ、ぼくの名刺です。何か聞きたいことがあったら、かまわないから電話してくださいね」と言い、別れ際に「北村太郎を幸せにしてくれてありがとうね」と言ってくれた。
 会はまだ続いていたが帰ることにした。せっかく休みを取ったのだから今夜は揃って外へ食べに行こう、と夫が言っていたからだ。「今日はママとごはん」と娘の真理も楽しみにしていた。
 幸せにしてくれてありがとうね。
 どこかにいる北村さんに向かって、私はつぶやいてみた。

 瑕疵は少なくないが、いい伝記だった。北村太郎のことがよく分かった。特に気に入らない所は次の「性交」という言葉だ。

 7月26日に阿子が北村の部屋へきた。この日も雨であった。窓の外では南京墓地の桜やミズキの無数の青葉が雨に打たれつづけていた。北村は合羽橋で買った専用の小鍋で上手に親子丼を作った。二人で向かい合って食べ、それから当然のように性交をおこなった。

 こんなのは「それから当然のように阿子が泊まっていった」でいいのに。
新編 戦後翻訳風雲録 (大人の本棚)
 それにしても天才詩人田村隆一の私生活は無茶苦茶だ。本書でも宮田昇「戦後『翻訳』風雲録」でも田村隆一の非常識ぶりは枚挙にいとまがない。宮田昇は、田村が優れた詩人だからと言って許されることではないと糾弾している。だがどんなにデタラメな生活を送っていても田村隆一は戦後最高の詩人なのだ。
 本書で北村太郎の語る「猫山」の話は初めて聞くことで面白かった。

「匡夫君、なに猫山って」
「猫が折り重なってピラミッドになるんだ。いちばん下に七匹、その上に五匹、またその上に三匹、てっぺんに一匹って感じでね。あんなの初めて見た」
「えーっ、そんなのってあるの?」
「見たい、ぜったい見たい!」
 田所夫妻の目が羨ましさに輝く。田所はバッグから手帳を出して、「どんなふうになるの、こう」などと、絵を描いて説明を求める始末である。
「匡夫君の説明に付け加えるとだね」(中略)「猫山は、うんと寒い日にできるんだ。寒いから身体を寄せ合うんだね。最初は一匹か二匹でくっついているんだが、だんだんほかの猫が寄ってきて折り重なっていく。下の猫も、上に乗ってくれた方が暖かいから逃げ出しもせず乗っかられているんだろうけども。ありゃあさぞ重いことだろうなあ」
「北村さんは猫山を何度くらい見たことがあるんですか」
「二度かな」
「今までの人生で二度、ですか」
「そりゃあそうさ」
 田所の不服そうな声に思わず笑い出した。
「だって考えてごらん。猫山ができるには、それだけたくさん猫がいなきゃならないんだぜ。東京に猫山ができるほど猫を飼っている家が何軒あると思う」

 私も猫山を見てみたい。