伝説の画家・篠田魔孤を誰も知らない

 伝説の画家・篠田魔孤について書きたい。私は一度も会ったことがない。こんな画家がいたと教えられた時にはすでに亡くなっていた。いい絵を描いたと聞かされたが、1点も見たことがなかった。
 独身で山の中に小屋を建てて一人で住んでいた。お金がないので画用紙にクレヨンで描いていた。小屋を訪ねると歓迎してくれて、おにぎりを握ってそれを囲炉裏で焼いて食べさせてくれた。灰をどけながら食べなければならなかった。寝ているとき大きな蛇が腹の上を横切っていった。集中豪雨で小屋が流されたときも高いところへ登って「小屋が流されていく」と見送っていた。お金がほしくなると飯田市内の医者を訪ね、うつむいたまま黙って絵を差し出した。画用紙にクレヨンで描いた絵だ。医者は500円くれたという。内気なひとだった。ある時道路で倒れてそのまま亡くなった。
 山本弘から聞いた魔孤さんのエピソードのこれがすべてだった。
 数年前高校の同級生と会ったとき、何と魔孤さんは俺の叔父さんだと教えてくれた。友人の一族は教育者一家で、お父さんは中学校の校長、他の叔父さんは県の教育委員会に勤めている。魔孤さんは兄弟中唯一の変わり者で親戚中の鼻つまみ者だったと言う。実家には魔孤さんの絵がたくさん残っていたが、亡くなったあと東京から画商がやってきて、東京で売り出したいから借りたいとほとんどを持っていった。それきり音信不通になってしまった。詐欺だったのだ。絵は戻らない。この時飯田市の多くの画家たちが同様の詐欺に遭っている。被害を受けなかったのはわが山本弘だけだった。「俺の絵は売り物じゃない」のだから。
 友人は魔孤さんの絵を2枚だけ持っているという。実家にあるから今度持ってきて見せてあげるよ。約束はまだ果たされていない。
 しかし一昨年6月、長野県飯田創造館という美術館で「洋画の群像ー明治から現代 郷土を彩った画家たち」が開催された。これは飯田市近郊出身または在住の洋画家54人を取り上げたもので、ここに篠田魔孤も2点展示された。私は見に行かなかったが全ページカラーのカタログが発行された。魔孤さんの他には無言館にも展示されている市瀬文夫、オノサト・トシノブ、須山計一、わが山本弘などがいる。
 このカタログで初めて篠田魔孤の作品を見た。いい絵だ。フォーブ風の力強い色彩の美しい絵だ。どちらも「パステル・紙」とある。要するに画用紙にクレパスで描いたのだろう。こんないい絵を描いていながら誰にも認められず野垂れ死にしてしまったのだ。巻末の略年譜を見るとたった8行でこう記してある。
 篠田魔孤(しのだまこ)
 1908(明治41)下伊那郡上郷村上黒田(現飯田市)、篠田伊義の三男として生まれる(本名篠田信義)。
戦前に2カ年ほど絵の勉強のため上京し、帰郷後は林や山中に家を建て自然児を自認し制作を続ける。
アンデパンダン展に出品、関龍夫、清水監、菅沼立男らと交友があった。
1964(昭和39)57歳で急逝する。
 魔孤さんが亡くなって3年後に私は山本弘に会い、あなたの伝説を聞いたのだった。一度お会いしたかった。



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