博打

mmpolo2007-01-06



 本物の博打を見たのは大昔山谷へ行った時だった。今はこの地名はなく、台東区荒川区にまたがった地域で泪橋交差点を中心にしたあたりだ。昔はいわゆるドヤ街だった。一度だけそこへ仕事をしに行った。職安(ハローワーク)があって、そこの建物の中で手配師が仕事を探している者に声をかけてきた。そうやって24時間の仕事をやったのだけれど、この24時間の仕事っていうのが、何と8時間の仕事を連続して3つやるという強烈なものだった。最初の仕事が、溶鉱炉みたいなところに一輪車でくず鉄を運んで投げ込む仕事だった。溶鉱炉の口が熱くて、くず鉄を一輪車からぶちまけると火の粉が立って怖かった。2番目の仕事は忘れてしまったけれど、工場の仕事だったと思う。最初とは全く別の工場だ。間に少し休みがあっただろうけど、すぐ次の仕事に移っていった。3番目の仕事が玉掛けだった。工場の中に細くて長い鉄棒が積み上げてあって、それをワイヤーで何本か束ねてクレーンに引っかける。クレーンが持ち上げてあっちの方に運んでいく。この仕事を始めた時はもう16時間働いているから結構疲れていた。しかも前の日寝てなかったので、居眠りしながら仕事をしたのを覚えている。それから1年後に日産自動車の座間工場で働いたとき、玉掛けは講習を受けて資格をとらないと従事させなかった。バランスを崩すとクレーンで運ぶ途中に荷物を落としたりするから危ないのだ。そんな仕事を未経験者にさせるなんて危ないし、まして居眠りしながらするなんて事故がなかっただけ幸運だった。連続24時間の仕事をして1日に3日分の日当を手にすることができた。その後二度としなかったのは懲りたのだろう。
 さて博打の話だ。山谷の職安の建物の中で、博打が行われていた。建物の中というのは、窓口の前にある空間のことで、そこでヤクザみたいな男が2,3人で丁半博打を開帳していたのだ。茶碗にサイコロを2個入れて、映画のように「丁方ないか丁方、半方ないか半方」と叫んで賭けさせていた。40年近く前で賭ける単位は最低千円だった。土方の日当が2千円くらいではなかったか。ヤクザは左手に千円札の束を握っていた。丁半が揃わないときはヤクザが賭けて数を合わせていた。テラ銭が1割だった。勝った方から毎回1割徴収していた。
 朝、まだ仕事に行く前に土方たちが金を掛けて丁半博打をしていた。それも職安の建物の中でというのが強い印象を残した。その時の映像をまだはっきりと覚えている。窓口の職員は知らんぷりをしていた。だから日常のことなのだろう。
 その後飯場に入った。道路舗装専門の土方だった。仕事は夜行っていた。道路を閉鎖する必要があるから。昼夜逆の生活になるせいか仕事がきついせいか給料は良かった。皆プレハブの飯場に住み込んでいた。夜8時頃出発して現場へ向かい、2時から3時ころには仕事を終えて戻ってきた。そんなに早く仕事が終わるのはすべて手抜き工事だったからだ。もう時効だからいいだろう。そんなに早く終わるから昼頃には目覚めて、みな退屈だから博打が始まる。ここではオイチョカブだった。いつも必ず新しい花札を買ってきて始めた。古い花札だと裏に印が付けられているかもしれないからだ。でも新しい花札も必ず印は付けられていたらしい。最初は10円で始められた。10円以上賭けるなと言いながら、負けた者は金額を大きくしていった。誰も反対しない。10円が100円に、ついで場に千円札が出て最後に1万円札が出る。結局10万円以上負ける者が出て勝負は終わる。これはインチキだった。
 オイチョカブは花札を使う。1月から10月までの札を数字ととして読む。1月松、2月梅、3月桜、4月藤、5月あやめ、6月牡丹、7月萩、8月ススキ、9月菊、10月紅葉。これをそれぞれ、チンケ、ニタ公、サンタ、四ツ谷、後家、六法、泣き、オイチョ、カブ、ブタと言った。2枚の札を合わせた数字の一の位が9に近いほど強く0が一番弱い。親と子で数字の大きさを競った。役札があって親が4と1を引いた時と、9と1を引いたときはシッピン、クッピンと言って親の総取りとなった。反対に子に同じ数字が3枚集まると嵐と言って子の総取りとなる。インチキは親をやる者が子の一人と示し合わせて調整したり、札の裏に薄く付けられた爪の跡で札を読んだり、左手の中に松の札を隠し持っていて、藤か菊が出たときシッピン、クッピンにした。確率ではあり得ないくらい親の役札が頻発した。
 この他キャバレーのボーイたちはチンチロリンをしていたが、一度もやらなかったのでルールは知らない。