松本卓也『ジャック・ラカン』を読む

 松本卓也『ジャック・ラカン』(岩波新書)を読む。副題が「フロイトへの回帰」。ラカンは構造主義の精神分析学者、いままでその解説書を何冊か読んだが、難解だという印象だった。

 本書の袖の惹句から、

毀誉褒貶を伴いながら存在感を発揮し続ける精神分析。その核心を追い求め、精神分析を仕切り直そうとしたジャック・ラカン。難解で知られるその理論体系を、フロイトが拠り所とした「五大症例」——ドラ、鼠男、ハンス、シュレーバー、狼男——を切り口として読み解いていく。かつてないラカン入門書。

 

 ラカンがこんなに分かりやすくて良いのかと思ったくらい読みやすい。まさに見事な入門書といえる。本書の中で詳しく解説されなかった「想像界、象徴界、現実界」については、巻末の用語解説で紹介されている。

 

想像界(想像的なもの)と象徴界(象徴的なもの):フロイトが論じたさまざまな事柄を再解釈するために、ラカンが1950年代に導入した区別。想像界はイメージからなり、そこでは自我と他者は想像的関係にある。この他者は、自我にとってある種の理想となる一方で、自我を疎外するものでもある。(この二重のあり方は、ラカンのいう鏡像段階において典型的にあらわれる)。象徴界は言語と法からなり、その座たる大文字の他者との関係(象徴的関係)のなかで主体は存在する。一方の想像的関係は誤認によって支配され、他方の象徴的関係は自らの歴史や欲望の承認を可能にする。分析治療とは、想像界から象徴界へ、つまりは誤認から承認への移行を行うものだというのがラカンの根本的な考えである。この移行を理論化するために、弁証法的反転や、シェーマL、空虚なパロールと満ちたパロールといった概念が用いられた。フロイトのいう「転移」もまた、創造的な転移と象徴的な転移とに構造的に峻別される。

 

現実界(現実的なもの)と幻想:象徴界(言語)によっては接近することのできない領域を、ラカンは現実界と呼んだ。それは、幼児期のトラウマや原風景、あるいは分析治療のなかで症状をどれだけ解体していっても残存する意味の外部にある核のような部分でもある。その現実界から主体を保護するために構築されるのが幻想である。1950年代のラカンの臨床が、想像界から象徴界への移行、ないし去勢の引き受けを目指すものであったとすれば、60年代のラカンの臨床は、幻想を横断し、現実界と向き合い、自らの享楽とどのように付き合っていくかを問うことを可能にするものであったと言える。なお、ラカンのいう欲望の原因としての対象aは、たとえばドラの失声や「交換条件」となることの拒絶、鼠男における金銭(=糞便)や死せる父の眼差しのように、幻想のなかで大文字の他者の欠如を埋める機能を果たすものであり、神経症に対する分析治療において主体はそのポジションから分離することが求められる。