ラカン『テレヴィジオン』を読む

  ラカンテレヴィジオン』(講談社学術文庫)を読む。裏表紙の惹句から、

……フランスの精神分析家が1973年に出演したテレヴィ番組の記録。難解を極める著作『エクリ』で知られるラカンに高弟ジャック・アラン・ミレールが問いかける。一般の視聴者に語られる師の答えは、後年まで続く『セミネール』にも見られない比類なき明晰さをそなえている。唯一にして最良のラカン入門!

 「比類なき明晰さ」「最良のラカン入門」とある。本文わずか100ぺージ未満の小著を早速読んでみた。ところがこれが少しも分からない。分からない理由を考えてみた。
1.私の理解力不足
2.内容が難しい
3.訳文の責任
 おそらくこれら3つとも関係するのだろう。訳文にも問題があるのではないかと考えたが、私はフランス語が分からない。だから正確にはそう言い切ってしまうには少々ためらいが残るのだが。凡例にあるが、「訳語には適宜、発音を示すルビを振り、原語を想起するための補助とした」。「ルビを振った訳語は、巻末の「訳語−原語対照表」に収録した」。さらに「訳文中に[9]の形で原書のページ数を付記した」。この最後の凡例は聖書のそれを思わせる。
 それにしてもなぜにここまで原書のページ数や原語に拘るのか。訳文だけで完結させることに何か困難があるのだろうか。過剰なルビは読むのに煩わしい思いをさせられるし、そのルビが発音を示すルビであり、巻末にその訳語−原語対照表を収録されているという七面倒な意図もよく分からない。訳文に自信がなければ小著なのだからいっそのこと対訳形式にすればとも思う。
 本書冒頭を引用する。フランス語のルビが振られている訳文を「 」で囲んで示す。

 [9]わたしはつねに「真理」(ラ・ヴェリテ)を語ります。「すべてではありません」(パ・トゥット)、なぜなら、「真理をすべて語ること」(トゥット・ラ・ディール)、「それはできないこと」(オン・ニ・アリヴ・パ)だからです。「真理をすべて語ること」(ラ・ディール・トゥット)、それは、「素材的に」(マテリエルマン)、「不可能」(アンポシーブル)です。つまり、そのためには、「言葉が不足している」(モマンク)のです。真理が「現実界に由来する」(ティアン・オ・レール)のも、まさにこの不可能によっています。

 じっくり読んで理解しようという意欲もない。
 訳語−原語対照表が巻末に17ページも掲載されている。いやはや・・・