小野寺時夫『私はがんで死にたい』(幻冬舎新書)を読む。小野寺は元消化器がん外科専門医。経歴は都立駒込病院に勤務し、のち同病院副院長、都立府中病院(現・都立多摩綜合医療センター)院長などを経験し、その後日の出ケ丘病院ホスピス科医師兼ホスピスコーディネーターなどを歴任、緩和ケアに携わるとある。2019年にがんで逝去、享年89。
8月に本書の新聞広告が載った。そのコピーから、
*2人に1人ががんになり、3人に1人ががんで死にます
*多くのがんは、死までの時間的余裕を患者に与えてくれます
*高度進行がんになったら手術は受けません
*抗がん剤治療も受けません
*体力のある間に、自分のやりたいことをやります
*在宅で最期を迎えるのが第一希望ですが……
*痛みなどの苦痛は十分とってもらいます
*入院するならホスピスにします
*がんになったら、がんという病気の本性を理解すべき
*食べられなくなっても点滴輸液は受けません
*認知症になる前に依頼しておくこと
*臨終に近づくときは、見舞いもなしでそっとしておいてもらいたい
*安らかな死を妨げるのは最終的には心の痛み ……ほか(本書より)
著者は、人の死に方として「がん死が最も自然」なのです、と言っている。助からないと分かってからも半年から2年ぐらい普通に生活できる。その間に死後のために整理をしたり、周囲の人に別れを言ったりできるから。事故などで急死したりした場合は遺族が残務整理で苦労することになる。
がんの多発転移がある場合は、治療で延命できることが皆無ではないかもしれないが、延命効果を期待できないことがほとんどだ。治療による苦痛を免れることはできず、最終的には助かることはなく、奇跡が起こることもない。人は、大きな宇宙からすれば「超ミクロ」の惑星である地球上に、さらに「超ミクロ」の生命体としてほんの束の間の生を享受しているだけで、例外なく元の宇宙の物質に戻らなければならないという大自然の摂理に支配されている。そのように小野寺は言う。
その通りだと思う。人はいずれ死ぬのだ。時間的ゆとりがあるがん死は望むべき死だと私も思う。私も4年前食道がんと診断され、食道を切除する手術を受けた。手術前に医師から手術の成功率は8割、手術が成功しても5年後の生存率は50%と言われた。8割の成功率は大きいと思われるが、8割の生存率は4/5で、ロシアンルーレットの生存率5/6より小さい。しかしロシアンルーレットは危険が大きいという印象がするではないか。それより危険なのだ。
手術を受ける前に覚悟を決めて、もしもの時のことを娘に伝えた。幸い手術は成功したが、仮に失敗だったとしても悔いは残らないようにしたつもりだ。人はいつか死ぬのだから、それが今であっても不思議はないのだ。
都立病院の院長職を経験した後でホスピス科医師兼ホスピスコーディネーターを担当した小野寺は、緩和ケアの重要性に気づく。日本では緩和ケアが遅れているという。モルヒネや麻酔薬をもっと病棟に常備し、苦痛緩和をすることに一層配慮すべきだと言う。日本ではアメリカに比べて麻酔医が足りないという。
さて、死が迫った時期の見舞いについて。
亡くなる本人は静かに死に向かっているのです。声かけには反応するがほとんど眠って過ごすようになったときに、見舞客が「これが最後だから」とどっと押し寄せ、次々と声をかけるなどは患者さんにとって大変迷惑です。(……)死に向かっている人にとっては、商売や勤務関係の人の社交辞令的な見舞いが嬉しいはずがありません。家族であっても、いよいよ臨終間際にだけ来て突然しがみついて大声でワッと泣くなどは、本人にとって穏やかでいるのをじゃまされることになりかねません。愛情深く介護した家族であれば、いよいよ死ぬときに大騒ぎすることはありません。
そもそも、見舞いは、患者さんがある程度元気なうちにするべきで、「重態に近いと聞いて一度は顔を出さなければ」というような見舞いはしない方がよいと思います。
私も3度の抗がん剤治療の入院から退院した時はほとんどヘロヘロだった。家族が付き添っていてくれたが、何も話すことができなかった。見舞客が来たとしても会話することが苦痛だった。会話のために頭を使わなければならないことが大きなストレスと感じられたのだ。あれが臨死体験に近いとしたら、最後はただ静かに眠らせてほしいと思う。
新聞広告を見て本屋に行ったが売り切れだった。ようやく入手して読んだのだったが、なるほど売り切れになるほど優れたがん治療の啓蒙書だと思った。
