江原順『日本美術界腐敗の構造』を読む

 知人に勧められ江原順『日本美術界腐敗の構造』(サイマル出版会)を読む。1978年、もう40年以上前に出版された本。時事的な内容を扱っているので面白いのだが古さは否めない。「まえがき」の冒頭で以下のように書かれている。

 この本を書くか、書かないか、随分迷った。友人たちにどちらがいいか、意見をたずねた。二、三を除いて、大方反対だった。「お前の日本での将来が台なしになるぞ」「機構のことを言うつもりでも、ひとは個人のスキャンダルにしてしまうからな。日本はそういう国さ」というようなことだった。

 東野芳明デュシャン論を幼稚な誤訳だと書いている。最初からちょっとすごいぞと思って読み進めた。日本でのヨーロッパの美術館から借り出して開かれる泰西名画展の仕組みについて批判されている。新聞社が予算を持たない美術館と組んで行われる展覧会のやり方がヨーロッパに比べていかに非常識なものになっているか。
 ただ40年以上まえのことなので、どうしても古びた情報だという印象がある。そうは言っても鋭い指摘がそこここに見られる。団体展の動きについて、

 象徴派の詩人たちが、後期印象派以後の動きを、官展アカデミズムを糾弾する形で支持して以来、批評が大きな役割を果すようになって、ことに第2次大戦後、批評家主導型の団体展が現れてくる。その代表的なものがサロン・ド・メエである。作家だけで運営されるものは、判断の基準が技法の洗練度、つまり「手」になり、批評家主導型のサロンでは、手仕事の否定と知的要素の重視ということになる。

 それで思い出したことがある。以前世田谷美術館酒井忠康さんが無言館の館長窪島誠一郎さんと対談した折、面白いことを言っていた。酒井は美術賞の審査員を一流画家たちと一緒にやった時、彼らの好みで合否が異なっていたと語った。

リー・ウーファン:自分と似た作品はすべて落とす。
横尾忠則:団体展に入賞する作品はすべて落とす。
堀内正和:シュールな絵はすべて合格させる。理由は、自分には描けないから。
前田常作曼陀羅図に似ていると、すべて合格させる。
野見山暁治:マチエールにこだわり、いちいち触るので、審査に時間がかかる。

 画家が選ぶと「手」を重視するというのはよく分かる。技術に偏重してしまうのだろう。日本画などはその最たるものではないか。
 さて、本書の白眉は最終章の「ある退廃についての報告」だろう。おそらく美術界の大御所であるらしいX氏が糾弾されている。これを書いたために江原は日本に戻れなくなったのだろう。また書かれていることが事実なら日本の美術界は腐敗していると断定せざるを得ない。
 X氏との間で、瀧口修造のことが話題にされる。瀧口が1940年にシュルレアリスムの件で特高警察に逮捕されたことを、最近になって「事件」だと称しているとX氏がいきどおっている。

「確かに事件でしょう」と私。
「とんでもない。生意気だよ! その頃の特高課長がぼくの高校時代以来の友人で、(瀧口氏と一緒につかまっていた)福沢一郎さんの奥さんに頼まれて、ぼくは電話したんだ。あんなもの(瀧口氏)小物で事件にならんよ、と彼は言っていたんだ」

 これを見るとX氏はかなりの大物に違いない。
 西洋の美術館から作品を借りるにあたって、X氏が国際常識に反して大きな利益を得ていたことが示唆される。それに片棒を担いでいるのがN画廊とあるが、出版部を持っているとあるから日動画廊だろう。
 古い話であるし、美術業界のことに不案内なので私にはX氏が誰を指しているのか分からない。なかなか興味深く読んだのだった。

 

 

日本美術界腐敗の構造―パリからの報告 (1978年)

日本美術界腐敗の構造―パリからの報告 (1978年)