小林信彦『アメリカと戦いながら日本映画を観た』(朝日文庫)を読む。昭和7年生まれの著者が太平洋戦争に突入した頃から終戦のころまでどんな日本映画を観てきたかを語りながら、そのことで当時の世相を少年の眼で描いている。とても興味深い社会史になっている。日本映画であるのは、戦争と同時に敵国である米英の映画が日本では上映されなくなったから。しかし日本映画といってもアメリカ映画の影響を強く受けており、小林少年は日本映画にアメリカ映画を探っていく。
真珠湾攻撃が9歳のときで、終戦のとき中学生だった。父親が日本橋で和菓子屋をやっており、その当時オースチンを乗り回していた。小学生のときから映画を見ていて、それもアメリカ映画が好きだったが、戦争が始まると日本映画を見るしかなかった。そんな経歴からさすがに映画に詳しい。また執筆のためにビデオでも見返している。
特に優れた作品は、黒澤明監督の「姿三四郎」と稲垣浩監督の「無法松の一生」だ。「無法松」は稲垣監督によって戦後三船敏郎主演でリメイクされたが、第1作の阪東妻三郎主演のものには及ばないとある。「スタッフ・キャストが一丸となっての燃焼度の問題である」と。
阪妻版の21年後に作られた山田洋次の「馬鹿まるだし」はその優れたオマージュであると書き、さらに
山田洋次は〈未亡人への汚れた男の無私の献身〉をテーマとした作家ともいえる人で、「男はつらいよ」シリーズの渥美清、「遙かなる山の呼び声」の高倉健、いずれも、最初の「無法松の一生」の阪東妻三郎を祖型としている。〈セックス抜きの献身〉は車寅次郎(渥美清)によってつづけられた。
昭和19年に小林は埼玉へ集団疎開をさせられる。初めて親元を離れた集団生活で、この時期がもっとも苦しかったと書いている。翌年新潟の遠い親戚へ家族ともども再疎開する。東京を離れたこの頃映画がほとんど見られなかった。
新潟で終戦を迎える。
戦争は終わったというが、要するに、負けたことは、みんな知っていた。
とすれば、常識であった、〈男はペニスちょん斬りで奴隷、女は強姦〉の線はまだあると、ぼくは見ていた。
昭和21年、ようやく東京へ帰る。ひとつの優れた戦争史だと思う。
些事ながら、p.116の獅子文六(岩田豊雄)が朝日新聞に連載した小説「海軍」のさし絵が中村直人とあり、直人に「なおと」のルビが振られているが、これは「なおんど」ではないか。