三浦篤『エドゥアール・マネ』を読む

 三浦篤エドゥアール・マネ』(角川選書)を読む。すばらしい本だ。副題が「西洋絵画史の革命」とあり、マネこそが伝統絵画を引き継いで大きく展開し、現代にいたる流れを作った革新的な画家だと主張している。読後それがほぼ納得できたように思う。
 三浦は本書を3つに分けて、「過去からマネへ」「マネと〈現在〉」「マネから未来へ」と書き継ぐ。マネは伝統絵画を学びそれを換骨奪胎して自分の作品を作り上げる。三浦がそれらを一つ一つ指摘していく。
マネの《草上の昼食(水浴)》の人物像はラファエロの失われたデッサンを基にライモンディが版画化した《パリスの審判》から採られている。またジョルジオーネが構想しティツィアーノが完成した《田園の奏楽》も参考にしている。マネの《オランピア》はティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》を基にしていることは明白だし、またゴヤの《1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺》を基にマネは《皇帝マクシミリアンの処刑》を描いている。マネの《バルコニー》はゴヤの《バルコニーのマハたち》を参照して描かれている。
 重要なのはベラスケスで、マネの《悲劇俳優》も《笛吹き》もベラスケスの《道化師パブロ・デ・バリャドリード》から強い影響を受けている。どちらもベラスケスに倣って背景が消えている。《笛吹き》を三浦は、マネによるベラスケスとジャポニスムの独自な融合の成果と呼ぶ。さらにマネの《フォリー=ベルジュールのバー》をベラスケスの《ラス・メニーナス》と比較する。そしてマネのその作品を「遠近法空間のゆがみに時間の複数性が重なることによって、古典的な現実表象が根本から崩壊しつつある絵画ととらえることができよう」とまで言う。
 さらに水浴図におけるルーベンスのポーズの借用などなど。マネはオールドマスターたちからテーマ、構図、モチーフ、色彩、筆触等々を摂取し、現代的な文脈に置き直して見せた、と。
 「マネと〈現代〉」では、マネは当時のパリを主題にしていたと言う。テュイルリー公園の音楽会や気球、酒場の歌手、鉄道、万国博覧会、浮浪者、競馬などが描かれる。この章の最後に三浦が書く。

 マネは決して過去と断絶して新しい絵画を創出したのではない。複製イメージが氾濫する時代に西洋美術の歴史を集約し、内実を無化することによって、絵画の規則を侵犯するアナーキーな芸術世界への扉を決定的に開いたのである。社会学ピエール・ブルデューの言に従えば、マネとともに規範的価値の喪失事態を制度化する「象徴革命」が達成されたのであり、逸脱する過激な前衛を正統と見なすような「モダニズム」の歴史の起点が打ち立てられたのである。しかしながら、マネが始動させたものは、我々が通常考えているよりもはるかに大きく広がり、19世紀後半から20世紀にかけての全西洋絵画史を貫いている。

 マネはモネやドガらと親しく付き合ったが、印象派の画家ではない。基本的に印象派がある瞬間の視覚的なヴィジョンを捉えるのに対し、マネは特殊の相に留まることなく、常にある種の典型化を志向する。セザンヌはマネの裸婦像から強い影響を受けている。さらにセザンヌ静物画でテーブルの線が左右でつながらないのも、水平に近い視線と見下ろした視線が混在しているのも、実はマネが先に採用して描いていた。そこからキュビスムへとつながっている。ゴーガンもマネの《オランピア》を模写し、タヒチでベッドに寝そべる裸婦を描いている。
 三浦はマティスの《コリウールのフランス窓》は、マネの《バルコニー》から人物を除いたものだという。マグリットはマネの《バルコニー》の人物を棺桶に変換している。ピカソもマネの作品を多く変奏している。
 さらに三浦は主張する。「絵画は物語を表したり、現実を描写したりするだけでなく、何よりも既存のイメージを操作して、新しいイメージを作り出す自由な行為であることを明確に示した。端的に言えば、絵画史を踏まえ、そこから作品を生み出す方向に大きく舵を切ることによって、絵画自体の在り方を本質的に変えてしまったのである」と。
 さらにデュシャンを引いて、「絵を描くときには物語性も、道徳的判断も、感情表現も不要であり、現実は再現するものではなく、カンヴァスの上に絵具で作り出すものであることを、マネは実践していった」。そして、感覚的、表層的な絵画という快楽主義的な側面を有しているとして、その延長線上にポップ・アートも位置していると言う。
 1983年にマネの死後100年を記念する大回顧展がパリとニューヨークで開かれた。その展覧会でもっとも参照頻度が高かったのが《オランピア》だった。

……この絵が20世紀になって近代絵画のイコンとしての存在感を次第に増していった状況が推察できる。伝統絵画の中核にあった裸体画の約束事から脱して、近代都市の売春婦を表す卑俗な主題と現実性。そして、3次元の空間性や事物の描写から、2次元の平面性、色彩や筆触など純粋に絵画的な要素へと重心を移した造形性。この二重の近代性(モデルニテ)によって《オランピア》は美術史の大転換を画した絵と見なされていたのである。

 すばらしいマネ論だと思う。12月16日付の毎日新聞「2018この3冊」にも、山崎正和が本書を取り上げて、次のように書いている。

西洋古典絵画史はマネに終わり、現代絵画史はマネに始まるという新説は、「メタ絵画」の概念の提唱とともにそれこそ革命的だが、練達の文章がその正しさを納得させる。フランス語での出版が切望される世界規模の傑作。

 「世界規模の傑作」と山崎正和が言うのだからその通りなのだろう。