小さな新聞記事に気づいたこと

 先日新聞に春の叙勲の受章者一覧が載っていた。勲章に格別の興味もないのでそのまま次のページを開こうとしたときに、知っている名前に気づいた。「カジ・ギャスディン」という文字が眼に飛び込んできた。よく見ると「カジ・ギャスディン/(バングラディシュ、画家)67」と書かれている。外国人の項の旭日双光章の受章者だ。カジさんは知人のポルトリブレの画廊主であり版画家でもある平井勝正さんの絵の先生で、また画家の山崎康誉さんの友人でもあるので私も面識のある画家だ。

 しかし朝日新聞4月29日の29面は広告を除いてほとんど受章者がページいっぱいに小さな文字で印刷されている。よくもこんな小さな字で書かれているのに気付いたものだと我ながら感心する。普通考えるのは偶然にそこへ眼が行ったという可能性だ。そうかもしれない。しかし下に示したようにこんなに大きな画面の右下の小さな文字なのだ。

 以前道を歩いていて不意に手紙を持っていたことに気がついた例をブログに書いたことがある。それを再録する。

 道を歩いていて急に手紙を持ち歩いているのを思い出した。何かポストのイメージが浮かんだ。この辺りにポストがあるような気がして探すと歩いてきたビルの陰にあるのを見つけた。手紙を投函して考えた。なぜ今急に手紙のことを思い出したのか。
 以前からこの辺りを歩くことがあったので、ポストがあることを覚えていたのかもしれない。それで手紙のことを思い出したとも考えられる。
 あるいは、歩いてきたとき意識しない背景の風景の中にポストがあることを、意識の潜在的過程が気付いて手紙のイメージを呼び出したのかもしれない。
 おそらく後者なのではないか。日常の風景を、意識は見ていながらその上を滑っていく。背景にいちいち丁寧に付き合っていたら普通に歩くこともできないだろう。ところが、何か違和感があるものに気付いた時、立ち止まり注目する。人が倒れている! とか、鞄が落ちているとか。そして、滑っていく眼と注目する眼の中間の状態が、潜在的意識が気付いたというケースなのだ。意識的には気付いていないが、ちゃんと拾って「手紙」のことを思い出させている。

 これは2007年2月8日に書いている。今回も同様に、自分では意識しない認知機能があって、それがカジさんの名前を一瞬でキャッチし、そのことを意識に受け渡した、そこで初めて意識が認知したと考えられるように思うのだ。それは右脳の認知機能かもしれないし、そうではないかもしれない。言いたいのは、意識がすべてではないということだ。意識以外、つまり自分がコントロールしていること以外に、あえていえば無意識の認知機能があるのではないか。先のポストに似た経験は何度かあった。私はこのような意識に昇らない認知機能のことを考えている。それは下等動物の認知機能であり、人間でいえば例えば内臓などの認知機能だ。この辺のことを発展させたいと思っている。